境界から見る景色

はじめましての気持ち

無意識と、親鸞






見守って欲しかった、想い・・・


お世話をされたかった、想い・・・


信じたかった、想い・・・


大丈夫だと思いたかった、想い・・・




深層に落とし込まれた


満たされる事のなかった


強い想いは




無意識になって


日々の選択を


かたどってゆく。



自覚されるまで、ずっと。



これを、欲望というのかも知れない。






無意識は (欲望は) うずく。


恐れ・・・


悲しさ・・・


身の置き所のなさ・・・


不安・・・


渇望・・・



ここにあるよ、


気づいて、


寄り添って、と。





無意識は、(欲望は)


その疼きを満たす為なら


なんでもする。


選ぶ道に善悪も、ない。


思考も実はしていない


合理性も無視


満たす為の選択は


怖いぐらい、


真っ直ぐで、単純


時に、正当化する為には

突拍子もなく創造的で


その様子は


自己完結の洗脳のよう。





無意識の (欲望の)


根底にあるのは、


悪ではなくて、苦しみで




欲望に変わり果てた無意識に運ばれて


今、ここ、に いない人生を


オートマティックに生きてゆく


そうとは知らず、無自覚に。




考えや選択も


今、しているようで


過去の自分が (無意識)


なしてゆく。



けれど、気づかない。


気付きたくない。


大丈夫、皆んなそうだから、と。


こうして


奥底のそうでない自分の実感は、


希薄になり


無意識に運ばれた循環の中で


不安から支えを求める


その輪はぐるぐる廻る



実感なく


目を伏せて歩けば不安で


流れに乗って


運んでもらいたくなる。




この世の大きな流れは、


人の弱さ、で


創られている。




もどかしい想いもあるし


切なくもある。


寂しい。






でも、この世は



手放せない痛みを抱えたまま


それでも生きてゆく



その為の


一つの


生き方を、


支えているとも言えて。




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私が、親鸞を慕っている理由は



親鸞は


今、ここにいない人に、


今、ここに いられない人に、



気づいていた人だと、感じたから。





自覚しても


自覚しても


逃れられない反応に(欲に)


なす術を持たない、民へ




だから、


念仏を唱えなさい


救われるから、と


説いたのだと。





そこからしか始まらないものを


知っていた人



それは


どうしようもない運命を


生きている人達への




深い洞察で


愛だと


思ったから。







親鸞への想いについては

またいつか書いてみたいです