家系(女系)

最近、店子さんにセラピストさんが多くなって
必然的に繋がりが生まれ
スピっぽい世界が身近になった。
私は、本質的な
スピリチュアル概念を、
理解ではなく「生きてきた」から
その世界の「言語」を話せるけれど
界隈に渦巻く人間関係は、
ノーサンキューでした。
今は随分その世界も
空気が変わった事を最近知りましたが
その界隈の、
良き人達に出逢ったものの
やはり、違和感は感じます。
その違和感は
私が必然で求めた概念とは
相容れないもの。
それをいつか
言語化してみたいものです。
それはさておき、
その一人のセラピストさんから
家系学、というのを教えていただきました。
女性なら
私をカウントに入れて
私、母、祖母、
この3代の
繋がりや、
ヒストリー、
象徴的に起こった事など
紐解くとよいそうですよ、と言われたの。
なるほど。
何となく、わかる。
------
母は、自分の母親、祖母のことは、
あまり話さない人だから
私も知らない。
私が持っている祖母の記憶、印象はあるけれど。
母が語る、祖母のストーリーは
いつも同じ事ばかりでバラエティがないの。
自分を掘り下げられない人の特徴。
自分を語れない母が
自分の母親(祖母)を
語れるわけがないのよ・・・
でも、もう
祖母はこの世にいないし
母も呆けてきていて
いつまで語るチャンスがあるか
わからないから
私も自分の心の整理の為に、
先日、思い切って聴いてみた。
母の問題の根本は祖母だと
私は理解しているから
今までも、気軽には聞けなかった。
今回も、気を遣ったし緊張した。
私「おばぁちゃんって、母にとってはどんな印象の人だったの?」
母「・・・頭のいい人だったわね。・・・とにかく、しっかりした人だったわ。」
祖母は
北海道で生まれて、
6人兄弟姉妹の中で一番頭が良く賢かったらしく、
女の子だったけれど、埋もれさすには勿体無いと、特別に祖母だけ函館の洋裁学校に進学させてもらったのだそう。
長男でさえ地元の学校を出るだけの時代でした。大学進学はもう少し後の時代の事です。
その後、北海道の郷里の、仲の良かったお寺のお姉さんが、東京の師範学校を卒業し女学校の教師をしていた時に、
東京の自宅に祖母を呼び寄せて、一緒に暮らしていたらしいです。
祖母はもしかしたら「自分も師範学校に通わせてもらえるのかも!?」と期待して、東京に行ったらしいけれど
当ては外れて、そんな事はなく
多分、教師をしていたお姉さんの口利きで
宮内庁から和服の仕立ての仕事をいただいて
納めていたと聞きました。
お姉さん先生のご実家のお寺は大きくはないけれど、血筋がはっきりしている名家でした。
家柄が重視されていた時代です。
そのお寺の檀家であり
付き合いが異様に濃い、祖母の家柄も
きっと、それなり・・・だったのでしょう。
祖母の兄は、皇居の近衛兵だったそうです。
祖母は、お姉さん先生と同じように、
女学校の先生になりたかったそうです。
私「何故? もう和裁のプロになって、宮内庁からの仕事も受けていたのに。」
母「外に出たかったのでしょう。社会に出たかったのよ。あの当時、女性が男性と同じような職業につけたのは先生ぐらいだったのよ。」
私「仕事を受けて仕立てていたのだからプロなのに。通勤して宮内庁の建物内で針仕事をしたら🟰社会に出たって?思えるのかしら・・・なんか違うと思うけど。(自分で考えた訳ではないのでしょう。)」
話を聴きながら
確かに、祖母と母で繰り返した「業」が見えた気がしました。
私のなかにもあった囚われで、手放してきた
業だったかも。
どんな人だった?という問いは
母には難しい問いだと知っていましたが
あえて、ぼんやりさせて
何が出てくるか、知りたかった。
でも、母は
「・・・とにかく、しっかりした人だったわ。」の繰り返しになって、
祖母の周辺は語れても
自分の心は語れなかったです。
-------------
祖母は、お見合いではなく
近所に住んでいた
私にとっての祖父と
恋愛結婚をしたそうです。
それも時代的に少数派だったのでは。
母が生まれた時には、
既に父親の母(曽祖母)が同居していて
小学校4年ぐらいに曽祖母が他界するまで
母は曽祖母と一緒に暮らしていたそうです。
母が自分の祖母を(私にとっては曽祖母)を
語る事は、
もっと、なくて
私は、最近まで、
曽祖母と母が一緒に暮らしていた事も、
知りませんでした。
母からイメージ出来なかったのです。
曽祖母がいたら身につく事や
影響を受けるものなど
もっとある気がするのに。
この時、初めて、
私は、母が語る 曽祖母の印象を聞きました。
母「・・キツイ人だったわね。」と。
いわゆる、嫁姑問題のある家だったようです。
曽祖母に、母は全く、懐いていなかった事が
ただ伝わってきました。
語る細かなエピソードも、ありませんでした。
ここにも
繰り返された連鎖を感じました。
私は、思い切って突っ込んで訊いてみました。
私「しっかり者の、その、おばぁちゃんに、
母は大切にされたって・・感じてる?」
母「・・・ないわね!」
その空気、
返事をする為に作った
明るく返そうとする、母の顔に
滲むものが一瞬、見えて
私に刺さりました・・・
無闇に訊いた私が悪かった
ごめんよ。
私がフォローしなきゃ・・という
気持ちになりました。
私「長男や、男だけを特別大事にした時代だったものね・・・」
母「・・そう。長男大事。末っ子(次男)大事だったから。」「それに私が生意気だったから可愛くなかったんでしょう。」と
自虐的に、誤魔化すように
何かが滲む笑顔で言いました。
あぁ、父もこの表情で
よく何かを語ったよ・・・
私の心も、
色んな意味で切なかった。
母の痛みも
自分の痛みも感じて。
母も
私に同じ事を繰り返したのよ・・・
自覚はないけれど。
私も、母のように傷ついてきたわ。
確かに、母にとって
私は生意気に映ったでしょう。
そして母は
その姿を自分と重ねたでしょう。
私が母に受け入れられなかったのは
母が自分で自分を
受け入れていなかったから。
自分で自分の傷に寄り添わなかったから。
私も、母と同じように愛されなかった。
連鎖を繰り返す人達は
絶望的に・・・自覚がない。
ただ、その現実を
私だけが、正面から見てきたよ。
今も見ているよ。
やり切れない。
何やってるのよ
ある意味で、
受け継いだ
能力的DNAや
運や
家柄や
物質面には
恵まれた人達が。
多くが苦しい時代に、実は余裕があったのに。
何故もっと、
家族と
心と
向き合わなかったのか。
いや逆に
人より恵まれていた事が
実は、不運だったのかも。
何も持たず
手放した私が
ここで、連鎖を止められたのも
全てを失って捨てたからかも。
母の顔には
祖母に対する、
怒りや恨みを、感じなかった。
それも、切なかった。
少しでも、感じたなら
まだ、気持ち救われるのに。
でも、母は
ただ、今はもう、
悲しくて、恋しいのだと 感じた。
あんな母の顔と
空気を感じたら
もう何も言えない。
もう許すしかないじゃない・・・
越えるためには
心の底に押し込めた
怒りや
悔しさ
恨み、嫉妬などは
もう一度、
感じ切らないと
越える事は、絶対に出来ないの・・・
でも、もう
母には 無理だ。
欠けたものを抱えて、逝くの。
祖母はもういないし
恋しさの方が勝ってしまった。
母が自分でつくった業もある。
もうそれは肩代わり出来ない。
ならば!!!
私が受け継いだものは、昇華してゆくよ。
大丈夫、
連鎖は止めるし
子に、親を決して恨ませない。
愛と呪いを同時に抱かせるような
不幸を2度とさせない。
絶対に。
私が、私を看取ってゆくよ。
きっと、この業は3代だけじゃないでしょう。
もっと、脈々と続いた
押し込められた「負の感情」「負の連鎖」
だったはず。
それも、看取ったわ。
祖母・母・私で昇華するものから
逃げてないよ。逃げないよ。
少なくとも
連鎖を終わらせる子を産んだと
誇って逝って。
そういう気持ちになった
心に刺さった、切ない母の顔、だった。
-------------------
ここで
叔母さまの存在、イメージが
私を導いてくれている。
私の祖母と叔母さまは
きっと嫁姑関係で苦しんだと思う。
祖母と色々あったはずなのに
叔父様とも最後にやり切れない事があったのに
でも、
最後まで美しく、
大切にする人も、事も、間違えず
聡明に生き切った、叔母さま。
没落した直系◯家に嫁いでくれて
ある意味で、本物の
一筋の光になってくれた
浄化の血🩸を、もたらしてくれた
叔母さまでした。
母が、
叔母さまの事を
裏では 名を呼び捨てて(この姿が本当に嫌いだった。姉の旦那や私の旦那も、母は裏では呼び捨てるの。何様?って思ってきた。)
口汚く、
悪くいう姿は
ただ、みっともなかったよ。
でも、きっと
母とは正反対に生きようとし、その通り生きた
叔母に対する、僻みと嫉妬だったのでしょう。
眩しすぎたね。
叔母さまの葬儀で明らかになった
偉大さを、ただただ感じて、
塞ぎ込んだ母だった。
--------
祖母は
周囲の人に手助けをする人で
近所の評判が良い人だったそうです。
それは、父から聞きました。
感謝をして、亡くなった時も
死を悼んでくれた付き合いの人も多くいたの。
どんな事に力になったか
幾つか例え話を聞きました。
良い行いのようだけど
でも、きっとこれも「業」です。
何故、家族以外のよその人に良く振る舞って
母や、他の家族をもっと愛せなかったのでしょう?
母にも
家族にも
勇気を出して
もっとピュアな愛を注いでくれていたら
あなたに上手く愛されなかった人から始まる
多くの不幸を
起こす種にならなかったのに。
でも、
きっと
祖母も同じように育ったはずです。
祖母の実家の北海道の家の人も
同じような人助けをしていたと
聞いた事があります。
愛に飢えていたのは
祖母も同じだったのでしょう。
自分が産み出した
自分の延長の子どもではなく
とにかく、
他者から得ないといられない
社会からの承認欲求が
とても強い人だったのでしょう。
社会は(会社)はイコール🟰母性の象徴なのです。
祖母が溺愛?して可愛がったはずの
長男と次男も
二人とも、還暦間際のいい年になってから
女性問題を起こしました。
祖母の「愛」「大事」も
歪んでいた事が想像できた、出来事でした。
母の父親( 私にとっての祖父)も
母が高校生の頃に、
祖母に離婚して欲しいと告げたそうです。
北海道の郷里に子どもを連れて帰って欲しいと。
祖母は、絶対離婚はしませんと言い切って、
許さなかったそうです。
その後6〜7年後に
祖父は旅立ってしまいましたが。
当時の
祖母の心や
母の心
家族に渦巻く「空気」を思うと
決して
心の繋がり豊かな
幸せな家庭ではなかった事は
わかります。
心はバラバラなのに
最後まで
家族の体裁は整えたのも
そこに愛はあったにかもしれないけれど
愛には触れられず、
色々な心が渦巻いたままの
混沌とした
家族だったのでしょう。
私が体験した実家と似たものを感じました。
離婚を申し出た祖父は、
疎開で離れた東京に戻って、
仲間ともう一度、創作活動をしたかったようです。前衛詩人だった祖父でした。
その事情を、母が実感として知ったのは、
なんと息子と私がきっかけで、
母はもう、70歳半ばでした。
---------
母は、決して自分の両親を悪く言いません。
多分、そんな事を言ってはいけないという
時代の空気も・・・あったのでしょう。
染みついた習慣は、変えられない人ですから。
その代わり、
母が押し込めた心の負債・闇は
父と姉と私に
全部、背負わせました。
--------
私は、この2年、
母が怒れない分も
私が祖先に、怒り切りました。
私の心の整理は、おおかた終わりました。
私を
私が満たす旅が
始まるのです。
それは
叔母さまが感じさせてくれたものと、
奇しくも、
父が自分の世界に生きた(自閉) 姿が
今となっては
導きのようにも、映ります。
何も特別なものはないけれど
切実に
深く
必死に生き直したよ。
祖母・母・私の 3代の業に対して
私は、精一杯向き合ったよ、と、
そう、今、言える事が
小さな誇りです。