境界から見る景色

はじめましての気持ち

思うことは自由




今朝、凸凹息子がTVの報道を見ていて


SNSの書き込みで罰せられた人を見て


『書くのは駄目かもしれないけど、思うのは自由だよね。』


と、言った。


その通り、と思う。




この言葉をその人に向けて言ったら、


相手はどう思うか・・・


傷つくのではないか・・・


受け止め切れるか・・・


そういう『配慮する心』が、育つ事が


重要なだけで


思うことは自由だ。


凸凹息子は、絶対にしないと信じられるし。




ブログも、本来は自由だと思っている。


個人の誰かに向かって書かない限り。


繋がっていない限り。


相手と自分の


自己責任の自由がそこにはあって、


甘えを越えた


大人の世界だと思う。




でも、


ある時点を境に


都合の悪い事への規制が


あまりにあっさりと始まった


境目はアメリカの前回の大統領選で


コロナ流行に便乗してうやむやに


それが普通になってしまった。


あからさまに意図して醸成された


気持ち悪い世界の到来だった。




『 配慮できるなら、何を思ってもいいし

どんな制限もないよ。』



ついでに、話す。



『自分が何を感じているか、正直になれないと、そこで心の成長が止まっちゃうの。それって凄いデメリットなのよ。』


『裁かれたのは、個人攻撃して配慮をかいたから。同じような人が同調したらネットは大きな力になるからね。』


そう答える


どんなに人に反発される思いでも


その思いが正しいか正しくないかなど

立ち位置でも、持っている世界でも、時代でも変わるものが多いし


その思いがあって、次の心に到達できる事も多いから


この世から消せばいいなどとは思わない。



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心のことについて話す相手として


以前は旦那が


最も違和感のない相手だったけれど


今は違う。


多分、途中で


それぞれが、それぞれの方法で


生き始めて 道が別れたから。


多分見えている景色が、微妙に違うのだ。




元々、真逆の選択をする者同士が


ある特異点で出逢った奇跡だったから


仕方ないと受け入れ工夫した。


お互い


視点を動かせない訳ではないので


よーーーーく 喧嘩はするし


譲る事が旦那より圧倒的に多い私は


ブチ切れる事も多いけど


それがきっかけになり


嘘ではない共感や反省が生まれるので


まぁ、疲れるけど


なんとか。




凸凹息子が育つにつれ


心の話は、


息子との会話の方が


しっくりくるようになった。



知識はないし


まだ青く未熟な事を含めても



感じる一歩、


受け止める佇まい


考察しようと開く心、とか




もう、土壌は


旦那を越えている。


センスというか。




心の事は 


知識だけでは十分ではない


知識が逆に


足枷になったり

変化を邪魔する事の方が


とあるゾーンにいる人には

実は、多い気がする


知識よりも


心の土壌が大切なのだ



身体の運動神経のような


心の運動神経を育てるのには


まずは土壌。


ベース。


在り方。




運動神経も一朝一夕で培われるものではなく


脈々と続く遺伝子であり


血族の努力の伝達であるように



多分、心の運動神経も


同じなのでしょう。




私も旦那も


運動は普通より出来る方だった。

旦那の家族には国体選手もいる


けれど、凸凹息子は運動神経が✖️💧


その、ご先祖様からの血の伝達を奪ったのは、


多分、母と私。


放射線を浴びる機会が


人より何十倍も


量としては何百倍?も多かった・・・・




これは、凸凹人の周りを観察していて、

とある『確率』に非常に違和感を持って


導かれた視野です。


全ての理由がそうではないだろうし


憶測だけど


一つの理由な気がしています。




それはさておき、


奪ったものの代わりに




私が必死に開いた世界は


凸凹息子に手渡せたんだなと、


最近、実感するのです。




手渡した、運動神経ならぬ


『ココロ神経』が


彼の生き残りの力として


働いてくれる事を


心から祈るのです。