今ここ、と、相入れないポジティブ教

ネガティブな想像は
オートマティック・カラーで
映画のように
脳内で自動再生されていました。
それを、みている私。
こういう設定が自然過ぎて
自分がネガティブな想像を
しているとすら知らなかった。
これを自覚したのが20代後半。
愕然としました😱
人生は自分で創造している、という意味を
理解しようとした一歩でした。
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でも、
超・ポジティブに考え
私って創造力あるのかも!?
それも、理解できました。
じゃ、ポジティブ方向に使えない?
切り替えられないか?と
脳内でやってみても
全っっ然・・・駄目でした💧
想像すらできない!
幸せになりたい
混沌から抜け出たい
切望しているのに
幸せになっている自分を想像しがたい。
ワンシーンでも想像する事に
物凄く力がいるのに
脳内自動再生など
とても とても💦でした。
幸せになる許可が、
自分で、自分に
おろせていない事を知ったのでした。
そうなった理由は
親は私の不幸を願っていたから。
その自分にむきあわなかったし
姉も、物心ついた頃から、心の底から私を妬み
不幸を願っていたから
隠された真実でした。
その通りに、育たなければならないと
植え付けられ育ったので
私も考えていないのです。
なのに映画のように不幸になるシナリオが
脳内でカラーで流れるほど、
それを自分で自分に観せている事に気づかないほど
不幸になるように洗脳されていた中で
必死で
もがいていたのでした
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私は
選択として
『今、ここを生きる』
『今、に 正直になる』
その繰り返しで繋がるものを生きてきました。
コツコツと。
それを決めた
あの時の、直感と勇気に
感謝する日々です (自分で自分に)
ポジティブ教は手放し
精神世界や
宗教的な教えも
占いも
ひと時、全部、手放しました。
否定では、ありませんでした。
ただ、運命を受け入れる、という決意で
その決意がゆらぐものから
身をひいたイメージでした。
そこから15年ほどあえて距離を置いて生きていました。
「今、ここ」から繋がる全てを信頼しようと
決めました。
今を生きる、という事の中には
誰かが語る「正論」と
真っ向から対する
自分の「時」も多々あります。
その誰かは
その時の自分より
ずっと前向きで立派な人にみえていました。
それでも、
自分の「今」を大切にする事を選択するのは
自己肯定感が薄い頃は
怖くて
不安で
自分の責任を放り出して
縋りたくなる瞬間でした。
それでも、今感じている事を
そのまま 見て
ただ、受け止めました。
責めないで。。
いや、違うな。
なんでもアリなんです。
責める自分がいるなら
責める自分も、感じ切るのです。
感じているままに
感じると決めるだけ。
最も大切に優先する心の作業は、
それだと決めるだけ。
やるべき事を決意していたので
誰かの意見に、変に
流される事も、減ってゆきました。
許可をおろせない自分を
味わってゆく事は辛い作業ですが
向き合った分
許可できる自分へ
広がる「幸」が必ずありました。
不思議だったのは
漠然と抱いていた問いには
ある日突然、答えが降ってきました
変えなければいけない歪みも
今を看取るほどに自然に姿を変えてゆきました
あぁ、こういう仕組みか、と、
目が覚めるように、実感してゆきました。
必ず、バランスが取れるのです。
自分の仕組みを信じる限り
心は、うまくできているのです。
自分の「今、ここ」を感じる繰り返しが
導いてくれるものは
自分を裏切るものでは ありませんでした。
ただただ、それを実感してゆきました。
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私の存在、
私の生き方は
ポジティブ教の人には
一見、つけ込む隙がある者に映る存在なのだと
途中で気づきました。
でも、今思うと
私の魂は、気づいていました。
彼らは安らげないなと。
一方で、
スピリチュアルなど知らず、
宗教にも頼らず、
心理学なども知らず
でも、自分の中の 愛情や倫理観に触れて
地道に生きている人とは
心地よく共鳴し
会話が成立するのです。
これってなに?
と、思いました。
ポジティブ教を
教えたがる人は
苦労や衝撃を受けた人生の人が多いけど
でも、残念ながら
やり取りにある空気には
まだ、愛は、ないなと感じました。
語るほど、立派な人ではない・・・
ポジティブなのに?
変だよね。
ポジティブに考えないと!と
言わずにはおれない衝動ってなんでしょう?
布教するのは何故でしょう?
ポジティブ思考な自分を自慢しなくちゃいけないのは、何故でしょう?
ほんの少しでもネガティブな発言をしたら
アウト!みたいな思考って何故でしょう?
アホみたい・・・
今はこう言えるけど。
実は
当時は無理でした。
自信のカケラもなかったから。
今の私が言わせてもらうなら
『いやいや、他人の心を簡単に否定する事自体、絶賛・ネガティブな行動よね?』
こんなパラドックスすら自覚できない
正直に切り込めないのに
どこが ポジティブなんだろう。
それって、ネガティブな存在では?
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ポジティブに解釈していたら
ポジティブに唱えていたら
全てがうまくいくと「信じたい」
そういう人の愚かさを
当時は、
愚かだとも
無様だとも
感じられず
それどころか
そのポジティブ教に染まって、
楽になりたい気持ちがありました。
でも
その狭間に
微かーーーーーに、
もやもや、と感じている「今、ここ」
に向き合うならば、
これも、私の心なのだなと
丸ーーーっと
全部を味わう事で
盲目になって
ポジティブ教の人と同調する事は回避され
距離を取るようになりました。
good job でした。
今だからわかるけれど
彼らの多くは
幻想を生きているのです。
人生を、生きているつもりで
長い、長い 休憩期間なんです。
そのまま天に還られる人もいるでしょう。
でも、魂に刻まれた
看取られなかった心・負の遺産は
見つけてもらう日まで
ずっとあるのです。
生まれ変わる時には
持ち越したままが、DNAに宿り
繰り返すのだと思います。
ポジティブに振る舞うことは
バッサリというなら
嘘つきな人と同じです。
ポジティブ教には
はっきりと「脳を騙せ」という人もいます。
それが正解だと。
脳科学でも解明されました!と
学者さんが言う事もあります。
でも、それを生きているポジティブ教の人に出会ってきた私のアンテナは
疑問を持っています。
例えば、
ポジティブに嘘をつく事で、
物質、チャンスを得る人がいます。
詐欺師もそうです。
嘘にも力がありますから、当然です。
でも、その豊かさを享受するほど
私が求めるものからは
その人々が離れてゆくのを
感じていました。
目を伏せてゆく感じです。
魂がある限り
いつかの人生で詰むでしょう。
嘘をつく人を、
なかなか信頼できないように
自分を信頼できなくなる部分が
心のどこかに、
生まれるのだと思います。
嘘をつく癖はなかなか治らない。
嘘つきな人ってそうです。
同じように、ポジティブ教も一度癖がつくと
やり過ぎるのでしょう。
他人につく嘘も
自分につく嘘も
突き詰めれば、同じ末路だと私は思います。
自分を信頼できなくなったら
心が分裂してしまうかも
人生までも、閉じたくなる事も出てくるかも。
何故なら
騙した相手は、他者ではなく
自分なのだから。
自分で、自分を裁くのです。
嘘を演じる事で
物質的なものを手に入れても
嘘を演じる事で
魂的に、手に入るものは
多分、一つもありません。
魂的には、ずっと
同じゾーンで生きているのだから。
前に書いた『魂的に 休憩する人。』の意味は
そういう意味です。
同じゾーンに居続けているのに
自分は変化した❗️と、思い込む。
気づきたくない人の、陥りがちな事です。
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安易な
ポジティブ教
ポジティブ思考を
私は、大切な人には
絶対に 薦めません。
ポジティブであれ!と導く事も、ありません
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どんなに素晴らしい教えがあっても
「今ここ」に居る 人間には
正解ではない時があります。
パラドックスだけど
正解ではない時がある事が、正解なんです。
立派な教えも
自分に採用するタイミングが命。
自分に責任を持つのは
自分を丸ごと知ることです。
正しくなくとも
あるものをみる勇気が最も大切で
ポジティブ教の人の姿と
主張とは、真逆です。
自分の中にあるものを
感じ切った先にしか
真のポジティブさなんて ありません。
ポジティブが悪ではありません。
ネガティブも悪ではない。
それを伝えたいだけです。
ネガティブは悪だと否定する事は
既に、ポジティブではないでしょう?
パラドックスがある所には真理が隠れているのです。
他者に説教しがちな人は
目の前に
自分が向き合えなかった宿題に
向き合おうとする人をみつけた人です。
不安になっている姿です。
魂は、知っているから、サインを出す。
相手が正しいよと。
でも、認められないから疼くのです。
魂の声を無視しているから(偽ポジ)
魂の声を消すべく
もっと大きな声で
ポジティブ教を叫ぶのです。
伝えなきゃ!と。
簡単に言えば
その行動は、ねたみ、です。
どんなに成功して
お金持ちになって
有名になっても
勇気を持っている相手に
ねたみ、疼くのです。
相手が自分より物質を持っていなければ
さらに蔑みを採用して
自分を慰めるでしょう。
魂的には物質も能力も関係ないからこそ余計に
自分を誤魔化している人は
必ず、『自分と一緒になぁれ!』と
正しさを纏い
『あんただけ、先に行かせるものか!』と
足を引っ張るものです。
必死に。
厄介なのは
自分が悪だと自覚がない事。
この世の8割は、
そういう人らしいです。
知りませんでした。
でも、納得です。
ポジティブ教を
たまたま持って生まれたカリスマ性で、
世の中にぶち上げて
多くの「信者」を抱えている人もいます。
その衝動の根っこも同じです。
さらに そこに、
同じ傾向のもの同士が集まり
共鳴している構図なだけで
数がいれば正しい? 真実?
いいえ。
ただの休憩ですw
SAで お土産買って食事して
トイレに行っているようなものです。
もちろん、そこにも
使える「教え」があるのは認めます。
知っています。
だってポジティブが悪いわけじゃないから。
私も、活用できる「時」には
真っ直ぐ使います。
使えるものは普遍ですから。
けれど
ポジティブ教を布教したくてしょうがない人と
ポジティブ教用に構築されたものには
安易に繋がりません。
私は、岐路で選んだものは
違うものでした。
お試し、だったのかも。
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最近、ひと段落が間近で
行動範囲を広げた分
ポジティブ教の人と遭遇する事も
増えてきました。
彼らに対して
見方・感触が変わるかなと
接してみても
全然、変わらないですね。
やっぱり惹かれない。
微妙に同じ事を語っているようで
実は、全然違うのを
感じます。
私には
幻想にしか見えないけど
その先に道があるのかも?
尊重して
今は、割り切り
でも、面倒だから、
彼らの餌になる自分は出さないでいようと
決めています。
ポジティブ教の人については
書きたい事、
書きたい事例がたくさん あります。
それぐらい
汚染されたこの世でした。
見えたものは
人間のサガであり
今に始まった事ではなくて
目新しくもないものでした。
姿を変えて
延々と続いてきたものでした。
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もし、私が体験した心の仕組み
「今、ここ」を
混沌を生きる人に伝えられるなら
それを大切に生きるなら
どんな負も
減らしてゆけるから、
そして減らした分
オートマティックに
幸せや、ポジティブなものが
流れ込んでくるから、と
伝えたい・・・
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今ここ に 居ることは
時に、
どこにいてもマイノリティだ、
そんな気持ちを味わうコトでもありました。
でも
それが正解なのです。
私は、たった一人のオリジナルなので
仕方がないのです。
寄りかかる事も
群れる事も
本当は、できないのです。
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長い間、
自分に許さなかったものを
許します
そういう始まりの年に
なっています
許可が始まりました。