➖節目➖

大きな転機がやってきた。
父が旅立ってから
来月で3年。
3日、3ヶ月、3年・・・
確かに「石の上にも3年」っていうけど
確かに
区切り、転機になる期間なのだね
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4月上旬までは、
まだまだ全然悶々としていた鮮明な記憶がある。
なのに、不思議・・・
憑き物が落ちたように
急速に、楽になっていった。
思い返せば
きっかけは、確かに、
幾つも重なるようにやってきた。
それが全部、総仕上げの
後押しになった気がする。
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伝えたい「ありがとう」を
取り敢えず3人には
自然な流れでお伝えできた。
全て穏やかな、温かい時間だった。
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【終わった。】
それが一番しっくりくる言葉。
全部、やってくるものを
諦めたら、
楽になれた。
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スピな世界の人達は
この感覚をきっと
わざわざ、
ポジティブな印象になるように
自分を飾って、
他者に表現してきたのね。
他者に対して
「私は 全てありのまま受け入れた。」
「私は 全てを許した。(愛した) 」
とかね。
そこには、
あの人達独特の
虚栄心があったはず。
なるほど。
いつも高みに居ようとする人達の
小さな嘘、癖が視えた。
☝️
今ならエセ・スピの
くにゅっとした違和感を
一つ書き分けられる(笑)
「全てありのまま受け入れる」は
【自分の心】に使う言葉なのよ。
自分が、自分の為に・・・使う言葉なの。
言葉ってね、
自分が自分に使うなら
ただ純粋に言葉通りだけど
同じ言葉を誰かに向けて使った途端
違うエネルギーを含むものになる言葉が
あるの。
例えば
自分の心以外の
外の出来事に対しては
「全てありのまま受け入れた。」じゃなくて、
正確には、
「全て 諦めた。」が正しいの。
でも、
この響きは
ちょっと後ろ向きっぽくて
かっこ悪い気がしたのでしょう。
DNA🧬に刷り込まれているだろう
プライドは
向き合って受け入れていないのね。
普通の人は
どっちも同じじゃん!って
思うでしょう。
そういう人は「幸いの人」✨なの。
だから、そのまま、
こんな世界とは関係なく
生きればいい。
でも、
言葉に宿る、
微かな、微かな、真実の空気を
必死に探しながら
模索している間に
似て非なるものに翻弄される
苦しみを抱えたピュアな人にとっては
こういう繊細な「仕訳」
エセ・スピな空気に潜む「分類」が
重要なのよ。
それは、迷った時の
道路標識のようなものなの。
例えば、【ありがとう】と【感謝】が
実は違う事のように。
(以前、感謝を自慢するエセスピな人のやっている事の本当の意味を、ブログに書き分けました。)
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スピな人達は、基本、
自慢したい。
とにかく、自慢したい。
根っこは自信がなくて
満たされていないから。
その根っこは
愛が貰えなかった人の傷で
認めて欲しい
褒めて欲しい、
私は凄いって笑って欲しい
そういう子どもの心なのよ。
それは
隠された無意識なのよ。
問題の根幹は、そこなのに
無意識に従うから
誰かから奪うサイクルを
ずっとやめられない。
目を覚まして
諦めて
自覚して
自分で自分を褒める、
自分で自分を愛する
そういう行動と、
心の動きと
選択は
欲望のままに
無意識に翻弄されて
他者から認め褒めて貰おうとする、人達の
一見正しそうな行動と、心の動きとは
似て非なる、全くの別ものでした。
【似て非なるもの】このキーワードが
私の人生の道標でした。
彼らは、
あえて、ごちゃ混ぜにしたまま
上から目線で
信者を集めるの
奪う為に。
一つの言葉
一つの選択
一つの関わり方
一つの返事
似ているようで、
空気が全然違う。
感じてみたら、わかるのよ。
キモチワルイ、クニュっとしたものが、
あるから。
昨日、
他人に大きくみせようと
もがくエセスピな人と会った。(食を買っただけですが。)
彼女は、私がスピ言語も理解できると
知っているから、(弱っていた3年前にもらした誤算でした。何十年もあえて絶っていたのに。)
私が行くと、彼女はここぞと、
スピ言語を漏れ出させてくるのだけど・・・
昨日は
そんな彼女に対して
母を観るような気持ちが
微かに混じった。
幼い子を見る気持ち
哀愁。
苦笑いの気持ち。
エール。
母への気持ちが大きく変化したら
同じものを抱える彼女にも、
そう感じるようになった。
そして、彼女の姿は
私の、二十代後半頃の一瞬に似てる気がした。
私には直ぐに大きな流れがやってきてしまって
全然、そのゾーンに留まれなかったけれど。
あの波は苦難だったけれど
幸いでもあったのかなと
ふと思った。
過去の私の寂しさに
頑張れ、と思うような
そんな気持ちにもなった。
そして
これで、
いつでも去ってゆける
本当にそう、思えた。
ある意味で、さようなら、でした。
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無様なものや、
アンビバレントさが見えても
あえてそれを整理しないし、
言い分けない
プロの心理家の立場を(専門家の)
30年前に、まず先に悟ってしまった私は
正直、もどかしかったです。
彼らは知っていても表現しない。
彼らは自分以外の触媒で起こる作用を
見守っているの。
そしてその触媒には
もう自分はなれない事も知っているの。
世界には自浄作用があって
必要な人が
自分の為に
率直になる時には
必ず、周りにも
必要なものが伝わり
分かち合って
変化が生まれるの
そして
分かち合った側の人間も
そこに、欲望でしがみつかなければ
それを残し、
進んでゆく。
それが自然なのよ
語ることも
行動する必要も
なくなる
動機が、ただ消えてゆくから
そのゾーンを去って行く。
それは
諦めや逃避とは
全く違って。
勿論、ここにも、
似て非なるものはあって
違う意味で
同じ事をする人も
いるはずですが。
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本物の心理家は
ある意味で、
時に
完全に無責任な
傍観者に映ります。
その存在に
苛立ち嫌った昔の友を
今でも、よく思い出していました・・・
心に残ったアレは
今思えば道標でした。
本物の心理療法家であるほど
仕方がない仕組みなのだと
初っ端に
悟ってしまった
自分のアンテナが恨めしく
かと言って、
友の苛立ちも
もどかしさも理解できて・・・
あの友は、今、どうしているかな。
きっと、
自由になっている事でしょう。
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心理療法家に
見えている世界があっても
自分達がする仕事は
その視野を持って初めて
可能な「ここ」なのだと
彼らは線引きができている。
それを越える事は、
心理療法家ではないもの。
全ての人に事情がある事も
見えるし落とし込めている。
誰にも寄り添うスキルも
覚悟も磨いてきて、
維持している存在として
クライアントと
一対一で出逢うまでは、
表現できない存在なのよね。
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うまく言えないけれど
私は心理療法家ではないけれど
それに近い変化が
私にもやってくるのだろうな。
生きる、という事が
そんなものなのでしょう