境界から見る景色

はじめましての気持ち

オパールの指輪

眠れない・・・


仕方がない。


昼間、変な時間に深く寝すぎたから


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母がボケる前に譲り受けた


オパールの指輪


祖母のもの。


心から、受け取りたくなくて


のらりくらりと はぐらかしていたら


私の指用に勝手に調整されて


やってきてしまった。


姉に譲るオパールは帯留めに2粒ついていたオパール。チョーカーにアレンジして渡していた。


2つぶだけど、私の指輪より小さなカラットだった。


介護が絡んできたから 今更、なぜ。

平等をアピール?


思惑は絶対あったはず。


ただ、正直、そんな事より

心からその指輪を受け取りたくなくて


欲しくない!譲り受けたくない!という

私の想いを、汲んで欲しかった。


母はいつでも私の気持ちを平気で無視できて、

自分の都合で動く人だった。



私が小さい頃に知ったオパールの言い伝えは、他の石より重くネガティブで、


それがまるで自分の人生のようで、

誕生石なのに、最も持ちたくない石No. 1だった


なのに、それでもやってくるのか・・・


避けられないのか、と


悲しかった。




石は人を選ぶという。


運命なのか。


ならば、譲り受けて良い方にゆくように


イメージを変えてやる!と、心を切り替えた。


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最近のオパールの石の意味を読んだら


あまり悪い事は書かれていなかった。


商材だものね。


でも、助かるわ。


心揺れないように、もうそれ以上探さない。


それよりも


オパールが祖母に元にやってきた理由が

ずっと気になっていた。



祖母がこのオパールを貰った相手は

同郷の年の離れたお姉さんだったらしい。


東京で女学校の教職に就いていた方で


そのお姉さん先生に呼び寄せられて郷里を後にし、


東京の女中さんもいる大きなお屋敷で

下宿をさせてもらっていたという。


どんな経緯で


お姉さん先生は、遠く離れた田舎から上京し、師範学校を卒業して女学校の教職に就き



東京で、女中付きの大きな家を構える事が可能だったのかも 


不思議な気がして


違和感がありました。


一体何者なのか・・・



祖母もどこかズレていて


郷里から呼び寄せられた時は「てっきり 女学校に通わせてもらえると思った。」と、


母に何度も語っていたという。


祖母は郷里で、裁縫の女学校を卒業していて、

その後に上京しているので、


東京の女学校には通わせてもらえなかったのだけれど、


仕事の丁寧さをかわれて、宮内庁から和装の仕立ての仕事をいただいていたと聞いた。


でも、それも、きっと同郷のお姉さん先生のつてで、口利きだったのでしょう。


そのお姉さんは、


生涯、結婚せず独身だったそうで


今思うと、早くにそう決めていて


もしかしたら、


祖母を養女にしたかったのかも?


が、祖母はそんな事は想像もしていなかったようで、祖母の口からは一度もなかった話でした。


当てが外れた祖母は


(ある意味、女学校に通わせてもらえると思い込めるのも、違和感を感じる図々しさだし・・郷里で家同士は一体どんな関係だったのか・・・と考えた2人の距離感でした)


東京で祖父と出逢い


早々に恋愛結婚で


そのお姉さん先生の家を出たようでした。




一体、どのタイミングで


そのオパールの指輪と帯留めを贈られたのか。


当時、お姉さんが


自ら購入して贈ったものなのか・・


お姉さん先生の家で、代々譲り受けていたものなのか・・・は


もう知るよしも無いけれど


そのお姉さん先生からの、


高価過ぎる贈り物を


何故、祖母は


躊躇いなく受け取れたのか???と思うと


不可解でしかありませんでした。




今でも価値を持つ、3粒のオパール。


私が譲り受けたものは最も大きな一粒で


近年、サイズを直す時に、このオパールなら

数百万ほどの価値があるでしょう、と言われたと母が言っていました。


明治・大正時代、オパールは安かったの???と調べてみたけれど、


よくわからず・・・


ただ、今ほど流通は発達しておらず、

どう考えても手に入り易いものではなかっただろうから・・・


それだけの予測でも


3粒のオパールへ込められた、お姉さん先生の想いは深い気がして。


祖母が受け取ったオパールは


私に取っては謎だらけで、もやもやする、

重いものだったのでした。


でも、


どんな経緯があったとしても


祖母に石がやってきた事も、運命なのかな。


その時も、石が人を選んだのかなぁ、と


思わざる得ない気持ちになるのでした。




私が譲り受けたオパールは


3粒の中で


どうしても私に譲る事を


母がこだわった、最も大きな一粒でした。


強硬に手渡されなかったら


母があの世に旅立つ時に、こっそり棺桶に入れて焼くつもりでした。


けれど、私の元へやってきてしまった。


運命か、と 受け入れて(以前blogに書きましたね)


まず、その、女学校の先生だった

お姉さんのルーツを辿る事にしたのでした。


お姉さんは、お寺の娘さんだったので


無関係な私でも、辿りやすく、


おのずとその周辺に生きていただろう

祖母のルーツも垣間見え、


ある意味、


大変な時代を生き抜いた、


私のご先祖さまに


想いを馳せるきっかけになったのでした。


それは共感であり、


許しでもあり


敬意を持つことにも繋がりました。



探った結果、端的に言えば、


お姉さん先生は、蓮如の末裔でした。


お姉さんご自身は、生涯独身をとおされたから


子孫はいないけど


能登を離れた先の郷里のお寺は


今も絶えず続いています。



祖母の家は、きっとそこのお寺の


檀家さんだったんだろうな。


特別濃密な付き合いだったようだから、


本当に、古い古い、お付き合いだったんだろう




不思議だな


蓮如は、親鸞にも繋がりました。


お寺さんだからね。



私にとって親鸞は特別で。(ブログに書いた事もあります。)




親鸞の中にみえる想いと選択に


救われた事があったから。


だからこの指輪がやってきたのかな・・・と


ふと、思いました。




紐解いてみえた指輪の繋がりは


禍々しいものではなく


何ものかからの「励まし」のように感じ


もう重くは感じなくなりました。


こうしてオパールの指輪は


私の特別なお守りになったのでした。




そして


実は、辿っていった先の地は


能登でした。


そのもっと昔は、石川県小松のお寺です。


祖母が「先祖の郷里は石川県」と言ってたらしく


その言葉とも符合しました。






そんなこんなで


今まで全く意識になかった県が


私のルーツの地としてインプットされたのでした。


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ある年、インスピレーションで


旅先に能登を選んだ時に


予約した宿の、目と鼻の先に


実は、お姉さん先生のご実家とルーツが繋がるだろうお寺がありました。



残念ながら、


帰ってきてから知ったのですが


呼ばれたような不思議な気持ちになった事を

覚えています。


(お寺の名前は知ったけど、場所を地図で確認していなくて、本当に偶然、近くの宿だった)




能登の旅は


全てがしっくりきて


心奪われる景色の連続で


宿も、食も、人も、景色も全部が


心地よい体験でした。


能登半島に入る前の湾を、高台から眺めた時、


『この景色をご先祖さまも観たのかも。

この中で生きたDNAが私の中にもあるのかも』


と、感じました。




元来、海を広く眺める景色に


やたらと惹かれてきた私なので、


その理由に行き着いた気がしました。




そこから


その年を含めて4年連続で、


能登に通いました。





翌年も


翌々年も


そのお寺にオパールの指輪を持って


参拝しました。



能登では良い思い出ばかりでした。



珠洲は海で泳ぐ事が大好きだった息子が

安全に楽しめる優しい海がありました。


勇壮なお祭りを夢中で観たのも、珠洲でした。


『能登はやさしや土までも』こんな詩を読まれるぐらい昔から


人も優しい土地だったそうです。


本当に、大人も高校生も、穏やかで良い感じの方ばかりに出逢いました。



転勤で離れた大切な友とは、


『子育てが終わって自由になったらいつか能登に行こう!蟹食べに行こう!』が


私達の合言葉でした。(友の祖先のルーツも石川小松にあり。)




旅を妄想しては


苦しい心の拠り所にしていました。



いつか能登に住めるかな?と考えた事もありました。


戯れに土地や古民家を探してみたりした事も・・・。



富山から石川能登にかけての田舎の景色は


私には、心に迫るものがありました。


みていて全く飽きず


伝わってくるものに感動して


何かが違う、と


ずっと思ってきました。





特別、美しいんです。


とにかく、美しい。


凛とした佇まい。


細部に心が宿っているのがわかるのです。



家屋も


その周辺も、です。



裕福な家だけではなく


小さな家も同じ。




それは簡単なことではないと知っています。


そしてそれが一個だけではなく


地域、全体なのが


信じられない気持ちでした。




その佇まいを


維持し続けるには


ある種の人の成熟と


繋がりと、関わり、


それが続く➕のファクターが なければ


きっと絶対に、成り立たない。




何かが欠けていたら


朽ち、脱落し、孤立して


地域の綻びとして「暗部」になる場所が


必ず、どこにもあるものなのに。



でも、それが、能登には


私には 見つけられなかった。


本当に美しい田舎でした




そのファクターは


私にはまだ解らない 何らかのポジティブさと


絆と、包容力と


優しさに裏打ちされた正しいプライドだったでしょう。


その地で脈々と守られた「血」が


能登を守ってきたのだと


肌感覚で、悟っていました。




能登が奪われず


彼らの「血」で


再生される事を願います。




悲しい結果になった方々へは


祈ります。


どうか安らかに・・・




異常なことが起こっているのです。


違和感しかありません。




もう私たちは


のまれてゆくだけなのか。




この違和感を


身をもって 今、感じている


能登の、若い人々の中に


どうか、


立ち現れて欲しい。


そう願います。




微力だとわかっていても


ご縁があった地に


心のままに


私もできる事をしてゆきます。