境界から見る景色

はじめましての気持ち

問う力




夕方カフェに。


途中、60代ぐらいの女性が


空き地の「つくし」と雑草のお花を

摘んで小さな花束を作り、握って


時折、眺めながらウォーキングしていて


ふっと和む


つくしや、雑草のお花に

心が動いている女性が、可愛らしくて



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来年度の保護者会役員に手を挙げた。

12月だった。


紆余曲折あって、


一度諦め

再度、やる事に。


凸凹息子に 


「春から役員やるから学校に行く機会が増えるよ。学校で鉢合うかもね。」


と、一応声を掛けておいた


凸凹息子


「へー。なんで役員やろうと思ったの?」と



「恩返し。中学でやりそびれて後悔したからね。この学校があって救われたんだよ。私も、あんたも。」


「凸凹息子も学校が好きなら、恩送り、意識してあと2年過ごしなよ。」


そう話しておく。


凸凹息子は息子で、


ゼミで先輩に貰った事を返してゆく事を、

意識しているようだった。


自然だ。


ありがとうと思う事があれば

自然に巡ってゆく。


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最近、凸凹息子に、


ニュートラルな「問い」を感じて


お!っと嬉しく思う。



ニュートラルな問いは


実は、


自尊心と関わっているから


一朝一夕ではできないと知っている






似て非なる『問い』は


そこここに、溢れているけれど。





私はニュートラルな問いを放つ人に


たくさん「問われて」


救われてきたから


その価値を深く深く、実感しているし




似て非なる「問い」にも、


とても、敏感。




問える「力」がある人かどうか?も


問われる前から、わかるから



申し訳ないけど


その力がない、と感じる人からの


似て非なる「問い」には


最善は尽くすけど・・・


心は開かない。



ニュートラルなスタンスではない


問いかけは


時に



自分の主張を語りたいがための「餌」であり


否定する事前提の「問い」だ。



それは文脈上、


問いかけている風を装っているけれど


全く違う。



心は、真逆。




理解するための「問い」や


関心を持った「問い」ではなく


相手を踏み台にして


体裁を整える。




相手を想うふりの「問い」を


取り繕うぐらいなら


真っ直ぐ


率直に


自分を、語る勇気を持てばいい




それが出来ない人の 


無自覚な狡さを


私は許容しない。



問題の境界が見えているから



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子どもが放つ「なんで?」は偉大。



それを、


自我を確立してから

もう一度身に付けるには


自尊心が育たないと


身につかない。



ニュートラルなスタンスの


「何故?」と


ニュートラルなスタンスの


「そっか!」


が、人に備わる事は




幸せに生きる為に、重要な事。



だから



凸凹息子からニュートラルな問いが


増えるたび


嬉しくなるのです



そうやって、


周りの大切な友と


関わっているだろう事が



目に見えるようで。