境界から見る景色

はじめましての気持ち

昔の友に会った日



今の心に率直に、を、心がけて会ってきました


結果としては、予想通り。


友も目的は果たし、


私も伝えるべき事は伝えて


にこやかに別れました。

後腐れはない状態で、終われたと思います。


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予想通りだったコト、2つ。


一つ目


私とどうしても、と会いたがった理由は、


まず一つは、自慢をする為だったよう。


もう一つは、私の子育ての結果を、確認したかったみたい。(多分、無意識の焦燥感でしょう)


どちらにせよ、


自分の無意識に触れずに


繋がってこようとするのは


下衆でした。



私と疎遠になった頃が「岐路」だったよう。




二つ目の予想通りは


私に繋がろうとしてた 


友の子、Tちゃんが


切ない結果になっていたコト・・・


これは、できれば外れていて欲しかった・・・


良き展開が、あって欲しかった。


想定外もある、という学びになって欲しかった


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あの頃、私には


友が 何を 間違えているのか


何が それを邪魔しているか


手に取るように、感じていました。



別に私じゃなくても 親ならわかる事でした。



間違えたら、


育つことができない危うい子も、いる。


散々、目の当たりにしてきたのに。


でも、結局、友は間違えたままでした。



私と距離をあけた理由は


どんなに理由をつけても


見透かしてしまう私が


疎ましかったのでしょう。



抑えきれなかった衝動が、


自慢話に透けて、情けなかった。


こんなものがTちゃんを潰したなんて。




私は所詮、他人だから


軽く扱われ傷ついても、縁は切れる。


でも、切れない娘には、


向き合うべきだったよ。


Tちゃんの人生も、命もかかっているのに。


救いようがない阿呆だよ



ちょうど、Tちゃんに最後に会ったのが


今の息子と、同じ年頃で


あの頃のTちゃんを思い出し胸が痛んだ。


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人生を通して、友のような人が「揺れて」


変化できる期間は、短い。



育児期間はそのチャンスで


尊さに触れ、人らしく生きて変化できる


ゴールデン期間なんだよ。


人は


一生涯、コツコツ成長できる魂と


一定期間だけしか成長できない魂とが


あるみたい。


彼女は後者


私の父母もそうだったな。



彼らは


子が、自我を持った時に、


自分達の許容範囲に育っていなかったら


もう、親、修了。


子に反抗されたら


「苦しめばいい。そこから学んでを理解しな


さい。私の許容範囲に入ってきたら愛してあげ


る!」 条件付き拒絶で対応する。


まさに友もそんな感じ。



昔から、友は


うまく子を愛せない人だった。


虐待だよ、と感じる瞬間も多々あった。


きっと友の家系の連鎖。


でも、その中に まだ、愛は感じた。


そのうちTちゃんに


虐めや病気など降りかかって


それがより、友を まともにした。


愛ある選択をしようとし


それがTちゃんに伝わっていた時もあった。


虐めや、病気を得る事も


無駄にはならないのだ、と学んだ。



友と娘ちゃんと、本当に一緒に泣き笑い


心から応援した十数年でした。


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友が、今回、私に自慢したかった衝動は


下の妹ちゃんの就職先と、彼氏だったようです


尚更なんで?と思った。


興味もない私に、それでも、知って欲しかった友の無意識って何なの?と考えてみたよ。


こうかな・・・


ある意味、友が、ありのままの自分で、


2人の子を同じように育ててみて


上の子は、潰れてしまい・・・


下の子は、輝かしく成長したので・・・


その両方を 知る私に


「ね? 私がダメな訳じゃ無いでしょ?

おかしいのは、Tでしょ?」って


承認して欲しかった気持ちなのかな・・・


私が同意するわけ、ないのに・・・



私の視野では


あなたの間違いも失敗も見えているし


あなたの抑えられない人間性が引き出されてしまうのも


Tちゃんが駄目だからじゃないって知ってる。


もちろん、究極は、誰が良い悪いの問題じゃ


ないのだけれど



友が この世に先に生まれ


友と旦那さんの勝手で、生み出した命が


Tちゃんなのだから


そこを「無かったことにして」


自分に向き合わず、被害者ぶるのは


立派な一つの悪だよ。


と、心で思っていた。



もう、友は


下の子の成長で、満足しちゃったみたいだから


あとは墜ちてゆくだけでしょう。


人間って、堕ちるときは呆気ないんだね。



彼女は


結局、子どもを


自分の自尊心を満たす「道具」にした。



そうならない生き方に、導かれていたのに。


最後の最後で、結局「道具」にして失敗した。


連鎖の力に負けてしまった友・・・




友を、少しの間だけ


愛に触れさせ、


まともな人間にしてくれたのは


Tちゃんだった。


その恩恵を巡り巡って受けていたのは


妹さんも、だったはず。



今、友は


Tちゃんからの因果応報を受けて苛立ち


他の家族を味方につけるべく立ち回り、


Tちゃんを孤立させている。


駄目人間のレッテルを貼り、厄介者扱いして



自分の心の安定の為なら、


どんなふうにも子を扱う姿・・・


控えめに言っても、醜いよ。


友の姿は、


私の母や父、姉を思い出させた。



友がTちゃんをこうやって扱うように


私の父母もこうして私を


切り捨てて いったのかな


痛みも感じずに。




愛があった時も確かにあったね


でも、消えてなくなる人間もいるんだ。




友を通して


私にはやっぱり家族はいなかった事を


また見えてしまったし


今、まだ生きている母の中にも「何もない」事も


姉だけが、今も我が家の子である事も



友を通じて


生々しく、リアリティをもって


再度、感じてしまった。




友も、父母も


振り返る事も、後悔をする事もなく


幸せに


のうのうと生きて、死んでゆく。




そんなもんなんだなぁ・・・と


友をみて、


この世の無情を感じた。




その陰で


Tちゃんは一人で背負い


苦しみながら、生きてゆく。




無情だ・・


だけど、ただ現実で


それが運命なんだ。



ふと、


Tちゃんのご先祖さま聞いて!?と


問いかけた。



あなた達が、脈々と繰り返してきた負の連鎖は


あなた達にとっても心痛まない当然のことうけれど。


その視点で生きて死んだのなら、


連鎖を生きている友へも、何も思わないだろう

けれど、


間違ってるよ。


あなた達が、今、守るのは


友じゃなくTちゃんだよ。


Tちゃんが、あまりに不憫だよ!


しっかり、守って!!!と、


心の中で 叫ぶように語りかけた。


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友とは、もう会わないかも。


最後にTちゃんの為に、


私は今、何ができるかな?と考えて



友が受け入れられなかった


あえて十数年、黙っていた事を、


一つ開示した。



『発達障害を診断する時にね、まず、発達の凸凹と同じような振る舞いになる「病気」が潜んでいないか、判別する為に脳のCTを撮る医師もいるの。』


『その判別しないといけない病気の一つが、Tちゃんの病気だったよ。』


『ようは発達障害と同じ。Tちゃんの問題の元は病気にもあるって事だよ。』


『私は一生変わらないって言われる凸凹脳の傷も癒せると信じてきたよ。』



Tちゃんの病気は脳にも出てるものだった。



私が息子の凸凹を受け入れた時


Tちゃんも、似たものを背負っている事は、

分かっていたけれど


友はカテゴライズから「逃げた」ので


あえて、そこから一度も


この話を突きつけた事はなかった。




友の愛が育てば、カテゴライズも要らない。


愛があれば選択は間違わない。それが最も重要だから、と。



私は、迷いながらも


息子の自尊心を育む選択をする、ありのままの姿を 飾らず晒してきた。


受け入れていない人の前で それをする時

受ける負も気づいても流してきた。


愛から選んでいるものを

友と、共鳴させられたら、と願い


ある時期、それは上手くいっていた。

十数年、育んだ関係だった



でも、友は


状況も、子も、

落ち着いて安定してきたら


むくむく「元の自分」が顔を出してきて

あっという間に、元に戻ってしまった。



私は、私と関わりがなくなっていた7年間の


知りたかった結果を、受け取ったよ。


無意識に、刻まれた連鎖に生きるって、


こういう事なんだね。


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私は友に


必要な時がきたらTちゃんに「障害者手帳を」促した。


友は目を伏せてきた世界だから

今はプライドが許さないだろうけれど。



⚠️あまりに、何も なさすぎたから⚠️


手帳を取る過程で 繋がる人の縁もある。


友には、もう期待できないから。


友が心動くように給付金を餌に誘導しておいた。下衆だから、こっちの餌に。




「Tちゃんの病気と心の繋がりを考察して寄り添ってくれる医者が必要と思うよ」と伝えた。


誰も、いないのだから。



友曰く「医者は(繋がりがあるって)何にも言わないんだよね・・」


と、また十数年前のように逃避したけど


切り込んだ。


私 『凸凹息子の脳の傷は単純なCTに映らないから私は見た事がない。でもTちゃんの脳にははっきり写るものがある。関係ない訳ないでしょう?』


『今までの医者がどう言おうと、脳にある事実を考えれば、わかるじゃん。』


『発達の凸凹と判別する疾患に挙げられている事実がある以上、繋がりを診る医師はどこかに必ずいる。でも自分から探そうとしないと出会えないよ。小児の先生から探してみたら?』


と、黙らせた。




なんで、ここまで、


こんな事も超えず


逃げ続けられるんだろう。


自分は


何を守って 何を捨ててたか、


直視しなよ。



『Tちゃんだけに背負わせる問題じゃないと思う。』


とも、言わせていただいた。




一度切れた縁。


これで本当に縁が切れてもいい。




友の心に刺さって


記憶に引っかかってくれたら本望。



事実その時、


友が、ほんの少し、揺れたのが見えた。


それでいい


役割はきっと終わった。




Tちゃんはもう大人になっているから、


家族以外の、良い縁に


つながる事を、心から祈ってる。


運命は切なくとも


その奇跡はある。


Tちゃんなら引き寄せられると信じるよ。




記憶の中のTちゃんは


一生懸命、生きようとしてた


私にとっては


とっても健気で、可愛い子だった。


どうか、生きてね


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再会は


戒めにもなりました。



子の


自我が確立してゆく時、


自立してゆく時が、


親として 


もう一度、問われる時。



分かってはいたけど。


再度、気が引き締まりました。




そこで失敗したら


関係性が歪むか、危うくなる


そういう時期。




友や、親の姿は、


私の反面教師


大切な戒め。



私は、生涯、親でありたい。


変わりゆく関係を、親として育みたい



その為に、見通したものを、


見せてもらった姿を反面教師として活かします


ある意味では、貴重な姿をありがとう


心では、さようなら