境界から見る景色

はじめましての気持ち

頑張って!と 大丈夫?




底を味わっている人に「頑張って」は


言っては駄目だとよく聞きます。




わかるし、


きっとそうなのでしょう。




ただこれも、私は少し違って




他の人から言われる「頑張ってね」の言葉は


おはよう、と同じぐらい


軽い、ていのよい挨拶言葉だと


どこかで割り切れて、流せていました。



だから、そこまでじゃなかった。



最も、心がざわざわして


苦しくなったのは、


他人が 案外、簡単に使う



「大丈夫?」でした。




大丈夫、じゃない。


全然、大丈夫じゃ、ない。




でも、その大丈夫じゃない事を


説明する空気はない・・・


背負って貰える訳でもない・・・


そもそも、あなたには、表現できない・・・




正直、そんな簡単に、大丈夫?と


言えてしまう人に


受容などある訳がなく



孤独の中にいて


喉から手が出る程欲しい人参を見せられるけど


一瞬で、人参は偽物だと知るような


気持ちにさせられる時が 苦しかったです。





ギリギリだけど



その一瞬、ひと時


普通のふりをして


持ち堪えている時に



安易な「大丈夫?」が


これほど人を


苦しくさせるものなのか、と


学びました。




悪意はないのは、わかります。




ただ一つだけ 


見えるものに


傷つくのです





大丈夫?の安易な言葉は


大丈夫じゃない私が見えていても


所詮、あなた優先なのです



大丈夫じゃない私が、


ほんの少し あなたにも見えたけど


心配する言葉を借りて


あなた優先を


一瞬で突きつけられるのです。



--------------------------


ありがたかった、友の選択を書いてみます。



ある時ランチに誘われて


正直、行ける状態ではなかったけれど


八方塞がりで、怖くて、


ほんの少しでも気が楽になりたくて出かけた


私にしては 珍しい選択の日でした



今思えば、


取り繕うことも出来ないほどの

様子だったのでしょう。


でも、自分では隠しているつもりでした。


普段通り何気ない会話をして


少し元気を貰って帰ってきたら


メールが届きました。


いつでも話しを聞くからね、と。

水くさいよ、と。


涙が出ました。


その友は、ランチで会っている時は


何も探ってもきませんでした。


一言も、大丈夫!?とも


聞きませんでした。


きっと大丈夫ではない、と、


ただ、察知したから。


今この時間を楽しく過ごせるように


心を尽くしてくれて、


元気を分けられるように、ただ居てくれて


後からメールをくれたのです。


その配慮に、泣けました。



彼女に細かく話したり、頼る事はなかったけれど


それはお互いに違いがあって、仕方がない事で。


そういう事を包み込んだ上で


彼女が私にくれた配慮は


愛があるものでした。


彼女が出来る最大限の選択だったでしょう。




充分に受け取り、


力を貰いました。



今でも、


かっこよかったな


ありがたかったなと


思い出します。





-------------------------------



他人を思い遣るふりをした


実は自分の気持ち、最優先の


「大丈夫?」は



とても苦しいものなのです。



やっと耐えている時に


足元を掬われるような


足元が崩れていくような


恐怖を引き出されます。





それが、


どう声をかけたら良いか分からず


その場凌ぎの、浅い言葉だったとしても。



その声掛けを選ぶ事が


あなた優先なんです。






大丈夫?という言葉が


悪いわけではないのです。





的確な関係の人が


自分が負える責を自覚して


的確な「時」に使うなら


こんなに救いになる言葉はないでしょう。



それぐらい力がある言葉だからこそ


使うタイミングで


全てを見透かす事が


容易になる言葉でした。





その言葉を、他者に掛ける時には


自分も責を負って、


慎重に掛ける言葉だと


知りました。




心配する振りをした自己満足の「大丈夫?」や


自分のやり方を押し付けたい「大丈夫?」・・


相手を否定したい「大丈夫?」


野次馬根性の「大丈夫?」





大丈夫?という言葉には


隠されている、心が


色々ある場合が、あります。


言葉通りの


透明な気持ちだけでない


別のものが。




多分、きっと「頑張ってね!」も


同じ 側面があるのでしょう。




頑張ってね、の言葉が苦しい人も


その言葉の裏にある


人の心のバリエーションに敏感すぎて


透けて見えて


苦しい人もいるのかも、と思います。



--------------------------




言語を使ったコミュニケーションって


面倒で複雑です。




決してその人が持つ心は


言葉通りではないから。




何故なら


無意識に生きる人ほど


言葉は、心を反映させていなくて


ただの飾りのようだから。




それを磨く為に


言葉を必死に操ってきた人生では


言葉だけが上手くなって


空々しい。




なのに、


そういう人ほど、


私は言葉通りの心です、と


堂々としているから。



周りもそれに


一応は配慮しなければならない


それも文化だから。



辟易する。




言葉って凄い事は、知っています。


私は言葉に救われてきた人間だから


言葉の威力は、よくわかっているけれど


心や魂が宿っていない言葉は


本当に


価値がないのです。






言葉は


タイミングや


空気が全てです。




文章は心が伴っていなければ


絶対に誰の心にも


響かない。





言葉そのもの意味よりも


100倍、真実を伝えるのは


そこにあるタイミングと


空気と


心です






その、心と


言っている事が


乖離している人の言葉には


とても敏感なのです。




それを、跳ね除ける事ができなく育ったから。


幼い頃は それは生きる術だっただろうし


その中には、本物の愛も、情も、


混ざってしまったから


どんどん複雑に なってしまいました。






そういう人の、そういう行為に


慣れすぎて


つい無意識で、


流して、なかった事にしまう事が癖になり


ずっと続けてしまいました。





でも、そうすると相手は


偽っている自分を許して貰えた


それが本物だと思って貰えたと


勘違いして


決して自分を振り返らず



受け入れてくれる土壌がある人へ


甘えを持って


執着し続けるのでした。





慎重に線を引いて


違うものが見えるまでは


安易に接触しない事、


距離を保つ事が


私の生きる道だったのでしょうが


できなかった。




マクロにみれば


相手の為でもあったのに。



共依存、その言葉も知っています


でも、時に


その解釈には愛がないと思いました



この世で、


依存が無い人など皆無なのに。


そのカテゴリーを生み出した人も


依存から生み出しただろう、はずなのに。


摂理なのに。






カテゴリーする事で


自分に「駄目だ」の烙印を押すぐらいなら


その解釈はいらない


私が自分で探すよ、と


思い切ってきました。



辿り着くところは同じでも



愛がないカテゴリーの世界から


ここまでは


きっとこれなかったはず


ぐるぐる堂々巡りで。




私にとって最も全てが上手く回るコツは


自分を適切に


優先して考える事に


挑戦してゆくことでした。




これも人によって違うと思います。



自分優先が過ぎる人が


これを採用したら駄目でしょう。


バランスの問題だし


色々な「教え」「選択」がある理由でしょう。





譲りすぎる


許しすぎる、


共感し過ぎる傾向の私には



自分の境界を大切にする事


自分を優先するチャレンジを


もっと意識すべきだった。





でも、精一杯だったから。



流れ、でした。


きちんと流れで


今、導かれているのだから




もうそれを、やめるのです


----------------


実は、


怒りのエネルギーが減ってきて




感じているのです




あぁこうやって


流されてきたのだな、と。



怒りのエネルギーを持ち続けるのも


難しい



でも、同じ事はもう繰り返さない。



ならば



どんな心の場所に立ったら


怒りのエネルギーで支えてもらっていた部分を


カバーできるんだろう。



それが分からない



まだまだ、途上・・



でも 方向性はもう見えたから。




話は変わりますが




数日後、友と会います。



今回 父の事で


一番辛い時に


最も寄り添ってくれた友に


父が亡くなってから初めて


お礼を兼ねて会うのだけど




きっと何か、あるはず。




私達の再会は


父の事があったから。


ちょうど その時、彼女にも


大きな転機が訪れていて


苦しみの真っ最中に


私を助けてくれていた事を


後で知りました。



驚いて、感謝したけど


彼女は私から助けを求められた事で


自分が支えられた時期だったと


言ってくれました



その言葉に


再会は、共鳴だったんだな、


必然の再会だったのだと


知りました。




彼女を通してみたものは


美しくて


強かった。



彼女が私を通して


見えたものが


彼女を支える何かに


変わっていたら良いなと願います。







縁はこういうものだと


また深く


実感しました。




彼女と会う日は


心を開いて、いようと思います