境界から見る景色

はじめましての気持ち

感謝教




『3歩進んで2歩下がる』




この言葉を残して下さって


ありがたいな



そういう事もあるよ

2歩下がっても、もう一度歩けばいい


そう教えてくれる。




今日も、手放したはずのことが戻ってきて


ぐるぐるしながら


もう一度手放す



大切な人達を、思い浮かべながら



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昨日、抜粋で書いた、


吉本ばななさんの一文には


似た事を思い出します。




私が常々思っている


胡散臭い「感謝」についてもそう。




憎いあの人がいたから、今の自分がある


『感謝しましょう!』と変な宗教みたいに伝える人や


『もう感謝しかないんだよね〜』みたいに自慢げにいう人に出逢うと


なんか、白々しいなと


空気で、肌感覚で感じる。


その言葉を言っても、そう感じない人も

この世にいる事は知っている


でも、8割は偽物で。



胡散臭いものを纏うぐらいなら


全体の繋がりが見えれば、いいのでは。


ここが昨日のばななさんの視点と


事は違えど、同じな部分。





負を与えられたそのパーツが(人)


居なければ、この人生はなくて


今ここの自分はいない・・のは


わかるし


今の幸を享受し肯定できたら


その意味は重くなる事も


十二分に体感してきたけれど


その幸に縋って支えられた日々だけど




だからといって


闇だらけのあの人にまで


『感謝』って・・・


全然、違うなって思う。




違う事を一緒に消化している感じ。




まぁ、それも その人の選ぶ事で


いいのだけど



感謝をする事が良いこと、とか

感謝を暗に強要される空気とか


意味がない薄っぺらな世界だと思うから


それが苦手な人に


届けばいいなと思う。



感謝はあえてするものではなくて


湧き出すもの。




全体が見えて


それぞれの人生が


こんなふうに絡まっていた事が


運命だったと思えたら(これは許しです)



薄っぺらな感謝など必要ない。



そのまま


胸を張って進めるよ



前も書いたけど


感謝する時、私達は、謝っているの




ごめんなさいって思う事を


他者にたくさんしたって事実なの




もう、謝れない人に対して


そこにいる闇代表に感謝!って思う事で


帳尻合わせて


自分を治めているんだよ。



それって美しい事じゃなく


行のような事。


自慢するとしたら愚の骨頂



だから


私は、


感謝、感謝とやたら言って


偉そうにしている人より



自分がした事


小さなことから、大きなことまで


もうタイミングを逸して伝えられなくても


心の中で


正直に


真っ直ぐに


ごめんなさいって


言える方が


人として、真っ当だと感じる


目の前に、同じことが立ち現れてきたら


もう間違えないよって


自分を生まれ変わらせる


小さな、事から。



これが実はできてなくて


感謝はすれど


同じ事を繰り返す人や


宗教を信仰して、神に感謝しつつ


勇気が出せず流される人を見ていると



本当に、感謝という言葉が


可哀想になる



私は


感謝教の人には


あまり近づかない。



ちょっと取り組みの違いのようで


大きく違うものが 


見えてしまうから