境界から見る景色

はじめましての気持ち

呪いと障害




私の特技の一つに


共通点を見つける事、というのがあります。


それは感覚的に感じる「姿のない」ものから


視覚的なもの


味、音に至るまで


いつも作動しているアンテナ。


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呪いというものを考えてみた。



深い負の感情を扱う時に


多くの人は


重く苦しい感情に翻弄され


己の負の炎に焼かれて


熱すぎてその想いを持っていることが


できなくなって


心の仕事半ばで


手放してしまうのだなと


私は思うのです。




どの宗教にも


呪う事は、自らも滅ぼすタブーのように


説かれているけれど



あえて、そのタブーを書きたい。



もし、まともな世界がやってくるとしたら


ぐるんとひっくり返るはず。



そんな事は


いくらだってあったんだから


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呪いは自身の身を滅ぼす


自分に返ってくる


人を呪わば穴二つ・・・とか




これを唱える人にも、信じ選択する人にも

利益になる仕組みでした。


人には必ず訪れる心だから。


助けを求めたくなる瞬間だから。




その弱さを利用し救っていたとしても


お互いの必然が 阿吽の呼吸で同意され


お互いに利益があったからでしょう。



救う人は


ただ目の前に伝わる教えとして


紐解き解釈しようとせず


脈々と繋いできて



正しいことを胸を張って

してきただけでしょうが



少し考えたらわかる事でした。


答えは全部、幼稚園児も知っていました。




恩を受けたら「ありがとう」


酷いことをされたらきっちり「怒る」




これが複雑になってしまう世界が


おかしいのだから。




ただただ


純粋な、ありがとう、と


純粋な正しい怒りを


表現する「勇気」を


持ちつづけることだった。



ありがとうは、

いつしか複雑な「感謝」に変わり


怒りは 

いつしか複雑な恨みや呪いに代わって



その複雑さに向き合う事が


難しくなってしまったけれど




それは、自分の運命なのだから


ただ、勇気を出して


やり切るだけでしょう



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ものすごく良い人が、


まだ寿命でもない非業の死を


迎える事を多くみてきました。


何故、あの人が・・・


いつしか、


「憎まれっ子世にはばかる」って


本当なのかも・・・と


既に若い頃に感じた事を 覚えています。




でも、今は


社会の空気、人の持つ集合無意識の空気に


自身の負の出口を塞がれ、


その負に、


心や身体を蝕まれた犠牲者なのかも、と


思うようになりました。





最初に書きましたが


私の特技に、様々な共通点を見つける、


というのがあります。




発達の凸凹の子を持ち


その家族に出逢う機会が増えたことや


深い身体の障害をもつ方の家族や難病のご家族に会う機会が増えて


思うことがありました。


感じる事がありました。




何かが、似ているんです


同じ「何か」を


多くの家族に感じました。



勿論、そうじゃないご家庭もあるし、

越えていく過程にいる家族もいて


一概にはいえないけれど


偏った割合ではっきり感じる


共通のものを


なかなか言葉にできませんでした。




でも、その似ている「なにものか」が


障害を持って生まれてくる子どもに


多分、関係がある・・


いや、関係がない訳がない!


もう、それは


直感でした。




私は、凸凹息子を


障害児として育児するというより


どうやって血族の業を


一つでも解いてゆけるだろう?という


想いの方が強かったです。


そこがあれば・・


その本気さに触れられたら・・


多分、凸凹息子に対して大筋では間違えない、


そういう訳のわからない確信も芽生えました。



怒りや呪いに戻りますね



たくさんの感謝や、喜び、笑い、愛する事は


必要です。


絶対に、生きるうえで必要です。


物凄く大切です。



でも、


この世にある「想い」「感情」に


無駄なものはない。



それが負の感情であっても、


正の感情と同じように、


魂は受け止めて欲しいと


きっと願っています。



私はそう解釈するに至りました。



他者の中に神を感じる事は正解で、何故自分の中の神を大切にできなかったんだろう。



ただ、負の想いは


苦し過ぎて持ち堪えられない時代も


きっと永くあったのでしょう。


もっともっと人と密で


もっともっと集団と社会に囚われていて


苦しい時代が。




だから


負の感情を抑え、無いもののように


振る舞える事の方が


利益があって必要だったのでしょう。




その頃の宗教者の役割は


その負の感情を


言葉や仕組みを使って軽くしたり


正しいとされる教義に


委ねさせる事で


お互いに最大の利を生み出し


生きてきたのでしょう。






でも、時代は変わりました。



もう怒りや呪いに


向き合う時代だと思います。



何故なら



そこに漬け込まれた世界が、今、広がっていて


もう末期だから。



負の感情を昇華しないまま


無かったことにした場合の話をしますね。



虐めを受けた子の脳に、


実際に傷が現れるように


自分の脳にも、身体にも傷がつくでしょう。




それが常態化したら?


脈々と続く傷になる。



身体を傷つけ、DNAを歪めて


病んでまで


偉い宗教書に書いてあるから?と


ジャッジされなければならない


ただの負ではないのです。




やましいものではなくて


もっともっと


大切に扱われるべき「負」です。




愛しい子に


歪んだDNAを手渡す可能性を想像するなら


真剣にも なれるのでは。




もう、表現すべき相手がこの世にいなくても


必ず、自分の周りに


同じ「事」があるはず。


反応してしまう事があるはず。


それは法則なのです。


縁は、悲しいかな続くのです。



だから、


同じものがみえる、そこに向かって


きっちりやり切るのが運命で、


本来の責任




負の、正しい使い方


正しい解放が




周囲を少しずつ浄化して


本物の温かな正が生きる場を得るのです


その


その負の昇華無しには


本物の愛など存在し得ない事を



1人にでも伝われば良いなと願います





私は負を扱って


いつか天に帰ります。




それを責めるご先祖さまや神さまか


誰かよくわからないけど


私が旅立つ時に迎えにきたら




そんなもの一瞥して振り切って


1人で三途の川を渡ってやる





でも


必ず、


仲間がどこかにいると


信じます。


理解してくれる仲間がいると信じます。



そうやって


古い信念を手放して、手放して


ゾーンを変えて


繋がりを得てきたのだから




小さな一歩の繰り返し


小さな実感の繰り返し


だけど後悔はない。




小さな一歩すぎて


世界はなにも変わらないけど


今、ここから


私の、大きな世界への


かかわりであり


貢献の仕方です


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感じ切る、


やり切る


浮上させる


出し切る


認め切る




そういう、方向へ向かう


「呪い」です。




自分の感情だと


自分自身だと、認める勇気です。



たしかに


強く苦しい感情に


囚われるのは


辛い


怖い




人によっては


それを恥ずべき事として


罪悪感すら感じるでしょう。



でも、


なかった事には


どうせ、できない。




どうせ、できないのです。




その単純な真実に


腹を括れば


囚われる事なく


昇華できる可能性が


やってくるはずです。





無いことにしない。


囚われることなく、手放せる。


その日に向かって


勇気を出せるよう




どこかの誰かに、エールを送ります。