境界から見る景色

はじめましての気持ち

呪いってなに?




昨日は友とランチでした。


初めて、


血族と、


交際相手、以外の


他人の前で、


がっつり泣いたのかも・・・




そういえば、私は子どもの頃から


人前で泣けない人間でした。



何か スイッチがあるんだよね・・・



でも、徐々に


泣きたい時に、泣けるようになってきました。




後悔と懺悔が心の中に渦巻いても


泣けない辛さ


カタルシスに繋げられない苦しさも


味わいました。




だから、


泣ける今は、


そのブロックが消えてきた


進化なんだろうな。



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呪いってなんだろうって、考えていました。



構造として




①有り余る熱量


②衝撃(ショック)


③物事の複雑さ


④目の前の悪・負


⑤裁く心


❻失敗・後悔


❼罪悪感



呪ってみて


それを手放す過程で気づいた事は




あり得ない悪事や負に隠れて



自分を責める気持ちが


実は横たわっていた事でした。




その後悔や


自分を責める気持ちが強すぎて



なおかつ


あり得ない衝撃・悪意に見舞われた時




それぞれが複雑に絡み合って


混沌となり


どこにも出口がない(←自分の決断・選択ではどうにもならない)


熱量だけが渦巻いた状態の時に


呪いって生まれるんだな・・・


と、知りました。



呪う気持ちを肯定して受け入れ


一枚一枚、薄皮を剥がすように


呪いを直視して


全体像に向き合ってゆく過程で




あれほど酷いことをした親族へ


理解が生まれてしまう視野と脳がある自分を


やり切れなく思ったりしました。


馬鹿みたいだと。


何故、自分を労わる前に


そんな馬鹿みたいな想いが掠めるのか、と。




でも、


苦しみを言葉にできるぐらいまで


直視していったら




最後に辿り着いたのは


私が失敗したと思い込んだ


後悔、でした。


痛み、でした。



辛かったです。




あぁ、ここも


全部ごちゃ混ぜになって


感じ切れていなかったんだ・・・


そう、自覚しました。





【人を呪わば穴2つ】


この心の構造を知った人が


安易に (←ここ重要❗️ 正解ではない)


だから恨みは捨てなさい、と


説いたのだな。


何故なら、呪いの中には


自分を責める気持ちも含まれているから。



確かに、


その説教で、どうにかなる「時」も


存在するのかな?


私には解らない世界だけど。


でも、


私はそんな説教は要らない。


全体を味わった今だから


言い切れる。




見ないふりもしないし


今ここで手放してゆく事を望む


今ここで。


求めるものは真の解放で




嘘くさい説教・綺麗事で


抑圧される事からも


自由になる。



だから、今も、これからも


細部をみて


感情を味わって


痛みを感じ切って


解放して


やってくる理解を受け入れる・・・


その繰り返しです。




私の呪いは、


どう、変化したか?



まず、


熱量が下がりました。


混沌が減りました。


衝撃には慣れが訪れて


客観性が生まれ・・・




そして


最後に懺悔がきました。


自分を責めている心が ありました・・・。



そうか


憎い人への理解が


ほんの少しでも生まれないと


呪いの薄皮を剥がせなかった。



それも、自分の為だった。


自分より他人への理解が優先される脳の構造に


心底、腹が立ったけれど




実は、理にかなっていた流れだったと


知りました。



私は私の事をしていました。





最奥に横たわる


自分の後悔を感じに行くためには


薄皮を剥ぐ必要があった。


微かな理解は


その為でした




最も奥底で


痛みを感じていた自分を


やっと、見つけて


等身大で、許してあげられました。



確かに、


彼らを呪っている事は苦しかったけど


自分を責めている心に直面する方が


怖かった。


呪う事は、怖れではないから


普通はそのまま流され


固定化されるのかも


だから、あぁいう「人を呪わば穴二つ」とかの言い伝えで


背中を押していたのかな・・・



でも、心の流れさえ止めなければ


どんな宗教も教えも要らないと


私は思う。


味わい切れば、


それぞれに必要な答えは必ず


心に降りてくる


その心の流れを止めるものは何か?


それを知ること


手放す事にだけ、勇気を出せばいい。


後は、自然になされてゆく。





憎い相手に向ける気持ちも


色や形があるとしたら、


随分変わったと思います。




ただ、


理解があるからこそ


私は 生涯、許さないのです。


許さない愛もある事


その、選択ができる事も知りました。




そしてきっちり、


解き放った呪いは


私がちょうどよく、自由になって


手放すほどに


届くのだと思います。



そのカラクリ、景色も見えました。




それは


彼らの責任の問題で


逃れられないものなのです。



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今回、父が残してくれた


救いと教訓は




一見、失敗や後悔の選択をする事になった、


最後の実行者の影には




多くの人が関わっていて


それらの人の


逃避や


狡さや、


罪の行為が


たくさんあって、


失敗が起こる事、不幸が起こることを


教えてくれました。




それはきっと


この世の法則なのだと


腑に落ちました。



最後の選択をした人だけの責任ではない。


その人が1人が背負う出来事ではないのだという


明確な、ストーリーでした。



立ち回る多くの人達の


実際は「尻拭い」で


そうするしかなくなる選択を


とても深く、痛烈に


細部を感じながら、理解しました。




それは、


苦しい現実でしたが


私の人生には


救いの実感でした。


父の魂の、懺悔だったかも。




父の顕在意識の意図ではなくても


父の「魂」が


私にその視野を残す事に


参加してくれたのかも、と信じたいです。





私は、罪悪感を持つ事を


植え付けられた人生でした。




そして気づくまで


無意識で


更に、罪を背負ってゆく事になりました。




そこから私が自由になる為に



父が残した


最後の


体を張った救いに感じました。




父は、正直に見たら


旅立つまで


顕在意識としては


血族の、向こう側の人間でした。



向こう側だった事を


受け入れる事も辛かった。




最後に、父へ期待を持った自分も、


馬鹿みたいで、


孤独で、切なかったから。



でも父は、どこかピュアで。




あの世に旅立つ直前から起こった


不思議なサポートは


父が?


何者かが?


私を守ってくれた奇跡でした。


何者かに救われた、確信があります。




それが父だといいなと、思うけど。



その 何者かの奇跡のお陰で、


孤独になりませんでした。




最後の悪あがきで


逆ギレしたり


私をゴミ箱にしてくる親族を前に


死にたくなる気持ちを


呪いに代えて


最悪の時間を乗り越えられました。




昨日は、


父の介護をキッカケに再会を果たし


支えて貰った学生時代の友とランチでした。




初めて


自分のことを語れました。


吐露し、


解放させてもらいました。




でも、私も気づきました。


彼女にも、私の視野と解放が


役にも立つ事を。




何故ならきっと


似た痛みを抱えた人間なのでしょう。



ただ友に感謝して終わる関係ではなくて


続く、が始まる。


育みます。




『自分に似た人に出逢いたい!』そう願った


昨年の願いは、叶いました。


叶っていました。


実はもう、学生時代に出逢っていたね。



友と離れている間に


それぞれが、それぞれの現実で学び、

実感し、選択してきた事が


今、恐ろしいほど共鳴できる。




不思議な縁。




もう一度、心を動かして再会できたのも


父の介護がきっかけだったのだから




父が、最後に残してくれた


大切な、


生涯の友かも知れません。