境界から見る景色

はじめましての気持ち

擬人化される意味




今日は何もしないで


ただ、ここにいました。


あれやって、これやってと思わない日。



何が湧いてくるだろう?



まずは自分を褒める


今年は父が旅立ち、それに伴う我が血族の膿が表に出た年だったけど  


直視すればするほど、


あの時、私だけが頑張って耐えたら


どうにかなったものでもなく・・・


たまたま起きた事でもなく・・・


ずっとあったものが 露呈しただけでした。



この血族に生まれた事が運命だとして


ここまでよく頑張ったなと


他人事のように


他人事のように自分を褒めました


自画自賛


これができるようになる事は


自分で自分を回復させると決めている人間には


めちゃくちゃ大切。


駄目な時の私は、この血族に生まれた事を


嘆いて死にたくなるだけだったから




自己憐憫もそう。


大切なんですよ。



はっきり言い切ります。



自画自賛

自己憐憫


今の世の中では


いいように見られません。




でも、とても大切なんです。


だから、いいの。



私は、私が育てていて


私は、私の力で回復している。



褒めてもらえなかった分は

たくさん自分で褒めるし


寄り添って貰えなかった全てに

私が寄り添うの


自分が、


ちょうどいい場所に立って←ここは重要❗️


自分に、


それらを与えられる時を




他者に流されず


大切にしたい。



そう


ずーーーーーーーっと思ってきました。


ずーーーーーーーーっと、


声を大にして言いたかった。




何故なら、



そうしたいけどまだ出来ない、


似たもの同志に


足を引っ張られる瞬間だから。



一番の厄介な存在は


全く違う人、ではなく


似ていてちょっと違う人。


これは法則なの。



やっかむ人の業は、また違う問題で


深いのです。




関わり合う必要はないと思えるなら


持ち堪えて


我が道をゆけばいいのです。





自分でいる事は


SNSやblogに表現し、出す事にも


支えられています。




ありがとう。


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今日のお題とずれちゃった。



何もしない、と決めたら何が湧くかな?


そう自分の心を観ていました。


浮かぶことは


父に聞きたい・・・でした。




*****




亡くなる2日前、


父は「(私の名前)〇〇は誤解している」と言いました。


父なりに、私の気持ちを楽にしようとしてくれたのかも、とも思いました。



でも、その選択、


今は受け止められるけど、


父も失敗したんだね。




父の向こうで


したり顔で にやついている姉・・・


バツが悪そうに横に佇んでいる母(私を踏み躙っている自覚があったからね)


悲しかった・・・


死にたい気持ちになりました。


必死にやって これ?


誤解じゃないよ・・・

誤解じゃないんだよ・・・


彼女達の心に気づいてる私が


父の気持ちを汲もうと抗っている・・・


でも、父に


自分達の欲望を叶える為に


最後の病床で


嘘を吹き込みそう言わせた


姉と母の非情さ


狂ってる


(いつかblogに我が血族の恥を晒そうと思います)




でもね、不思議。


父が旅立つ前日から


仕組まれたように、そのボロが


偶然に剥がれ落ちていって


誰が、何をしたか明白になった。




ミラクルだった。




そのミラクルは


私を守ってくれている


何ものか、の計らいなのか???


私は


旅立った父がしてくれた事だと


信じたかったのだけど。




心の片隅で、


あれは父では無いのかも、と



怖くて


ずっとコインに聞けなかった。




もし、父じゃなくて


何ものか、のサポートだよ! とでたら




悲しくて


悔しくて


孤独で


きっとやり切れなかったから。




でも、


真っ直ぐ、


ニュートラルに感じ切ったから


もう何が出ても受け止められる、と思えた。




初めて、今日、コインに託して聞いた。




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私:あの一連のミラクルは何ものか、ですか?


コイン:NO


私:では、父ですか?


コイン:YES




涙が溢れました。




信じよう。


私はそう信じたいのだと、知りました。


それでいいよね。



もう一つ聞きました。



私:何ものかは、神のようなもの?


コイン:NO


私:法則ですか?


コイン:YES



寂しさが押し寄せて


涙がまた溢れました。


どこかで


人のようなものであって欲しいと


願っていた自分を


初めて、認めました。



私は生きている間に


たくさんの奇跡に支えられてきました。


その、奇跡を


何ものか、からだと感じたかったから


何ものか、と呼んでいましたが


でも、どうもそれは


法則であり、


人間の生きる仕組みなのだと


うっすら気づいていました。



私発の心で


動いてゆく世界。


引き寄せられる世界。


繋がる世界。



自分の回復に必要な事も


感じきって、


心洗って


目指すものを見据えたら


オートマティックにやってくる・・・




本当に、そういうものでした。





どこかで、醒めた気持ちを保ちつつ


付き合ってきた世界だけど




どこかで


奇跡のようなものは


人のような何かが起こすものであって欲しいという気持ちが


私の中にもあった事を


今日、自覚しました。




そうだよね


だから宗教がこれほど続いてきたわけで。


私にも、


誰かがついていて欲しかったんだよね。


1人じゃないと、思いたかった。


人恋しいのは


人間の証でもある。




でもね


もう擬人化された、


何ものか、に ではなく


権威に頼って他人に託す、のでもなく



時の足枷が消えてきたからこそ




自分で


自分を救える


時代なのだと思います。