境界から見る景色

はじめましての気持ち

決別  (削除加筆あり)

長いかな。発達のお話です。

ご興味ある方だけで。



発達外来のお医者さんに


私が『息子は幼稚舎を辞めた』と話したら


何があったの?と、一言も聴く事なく


いきなり「絶対に辞めてはいけなかった!!!」と、医者は言い放ちました。


空気としては上から目線で叱られるような

愛はないものでした。


辞めたのにも理由がありました。


私が、呆気に取られている間に


「そうやって、他を求めて行く傾向の人達は、結局うまくいかない。」


今度は蔑んだような空気で・・・



そのお医者と面談するのが3回目?ぐらい。

トータルにしても1時間半も話していない間柄


しかも予約が一杯で3ヶ月に1回位の付き合いでした。


(この人、私達の一体何を知った気になってこんな言葉が吐けるんだろう?) 


一瞬で、そう思いました。


医者は、息子に発達検査も役に立つ療育も

何も指示もなく、

診療の時間は ただ、様子を聞かれ上から目線で指導されるだけ。


その指導も、言葉に違和感しか感じませんでした。


息子は人に敏感だから怖がっていました。


でも、その当時


今後、診断書など必要になる時が来るかも知れないから、病院とは繋がっておかないと、というのが


凸凹を育てるママさん達の共通認識でした。


その気持ちだけで受診した3回目。



この日 私は 静かに切れました。


何故なら、


幼稚舎をやめるという選択をするのに、本人の意思が関わっていたからです。


息子は大人の会話を全部理解していました。


苦しんで決めた子の前で

吐いていい言葉ではないと思います



意味もなく手を挙げられたら

守ります


言葉も充分 暴力なのだから。



私--

「先生、今、絶対辞めてはいけなかったって言いましたけど、何があったか、一言でも今、私に訊ねました??何もききもしないで、一体この診療に、どんな価値があるんですか?」



凸凹の子を持つ親は、よ〜く知っています。

お医者さんには凸凹な人が多いです


発達凸凹アスペ傾向のお医者さんは、

人に質問できない傾向の人が多いんです。

特に、満たされなかった凸凹アスペさんは


愛もなく高圧的になったり

自分の持つ知識の中だけで生きたり


素晴らしい凸凹お医者さんも知っているので、


全員がそうだとはいいません。


が、曲がりなりにも、


心や脳を扱う科を選択をしたなら


自分を愛せていないからといって


似たもの、

同じ苦しみを持ったものと

出会う場所にわざわざやってきて


自分が強く出られる立ち位置を確保し

安全に、


自分は違う、と思うための

同族嫌悪?で


心を搾取し続ける人を


息子の目の前で、許すつもりはありません


ぐるぐる巡る、負の連鎖の輪を


ここでも・・

そこでも・・

あそこでも・・


と、否応なく感じ


こんなに大切な場所にいる 


医者までもか!!!!と

医者の肩書きを隠れ蓑に


自分が何をしているのか自覚がない人に


心から憤りを感じました。




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私は「凸凹は変わらない」と思う派では

ありません。


ゆっくりでも「凸凹も変わってゆける」と

思っている派です。


脳は変化しうる可能性が常にあるからです。


14年ぐらい前かな。


新聞に、イジメのPTSDで脳に傷が出来る画像がのっていました。シワとして刻まれるんですね。


でも、心が癒されると、

脳の傷(シワ)も消えていきました。


もし、イジメのように、


同じ苦しみを、

家系の負の連鎖として

何代も子孫に手渡していったら


同じように脳は傷つくだろうし、

徐々に傷は深くなり・・


なかなか消えない傷として(シワとし)

刻み込まれてしまうのでは???


発達障害って、そういう事なんじゃ?


と、勝手な想像ですが

でも、一理あるのでは?と真剣に

想像したりしました。


虐待とかイジメの連鎖とは、

そういうことだから。


親から子へ

またその子どもへ


傷ついたら、

人は何処かでやり返して

次の人間に渡してしまうのが


無意識に生きる人間の性だから。


連鎖的環境を断ち切らないと

脳も癒されはしないはず、です。


理不尽な扱いをされる場所に

無条件に子を託すのは

負の連鎖に加担する事かも


連鎖を止める、ということを


徹底的に意識し始めました。


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ちなみに ズレますが


凸凹のお医者さんは、


人に話を聴く事が苦手でも、

あまり問題にされませんよね。


でも、その傾向では

企業で営業職はできないでしょう。


職種は限られるんです。


無意識にも生き残りをかけた選択で

医者になった。そういう意味で、

とても頑張った、勝ち組さんです。


この世の社会は、『凸凹理系』さんには、

割と生き残りの道が用意されているんです。


得意な分野を伸ばしつつ・・

ゆっくり育つ事も許され・・・

その間に折り合いがつき・・・

残った特性も、あまり問題にされない・・


そういう場所が、あるんです


でも、健やかに生きる『文系凸凹』さんは、

どこにいるんでしょう?


いくつかは見えていますが、

まだ、私にも広くは見えていません。


どんな生き方が生きやすいのか


ずっとずっと、問いを持っています。


はっきり言えることは、


文系凸凹は、理系凸凹より

格段に乗っかれる『社会に敷かれた』レールは


少なそうです・・・



あぁ💧


話がどんどん脱線してゆく・・(苦笑)


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取り敢えず戻して!



無意識に負の連鎖を繰り返す人を


私は『コンプレックスを似た人を使って解消・消費する人』と


呼んでいます。


こじれてしまった人達です


私は聖人ではないので

息子を傷つける人まで配慮はしません


人には


救い時、

救われ時


があります



無意識の人は

救われ時では、ありません。

救い時でも、ありません。



私の役割は

凸凹息子を潰さない事で



傷つける誰か、

理解しようとする事は,キッパリやめました。


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(診療シーンに戻って)


【私】 『ただでさえ一杯一杯なんです。先生は息子に発達検査や療育の指示も何もないじゃないですか?何の為に、ここに私はきてるんですか? 挙句に何も訊かれず、いつも駄目と言われても。』


お医者はタジタジでした。



「・・お、・・お母さんにカウンセリングをつけましょうか!?」



もう心は決まっていたけど


ちょっとだけ、先生が可哀想に思えて


取り敢えず、


その場の体裁を整える振り、を


許してあげました


「・・・じゃ、カウンセリングの予約を入れて下さい。」


と言い残して、病院を後にし


車に乗って速攻で、カウンセリングのキャンセルを電話で告げました。



決別でした。



帰りの車の中で 大泣きしました。


この時期、何人か

あり得ない人に出逢っていました。


皆、同じように「自分と一緒になぁれ!」

と呪文をかけるような人でした。


でも、


あり得ない姿でいた人達がいて


選択を間違えなかった、のも事実です。




どうしても解決案が見えない

ぐるぐるした思考の中で、


もう目を閉じて、


息子が社会の生贄になると分かっていても


差し出す事も、勇気なのか?

そこに何か救いがあるのか?


そんな悪魔の囁きのような迷いに


あり得ない佇まいで

やらかしてくれたお陰で、


私は、自分を誤魔化しようがなく、


ただ、決意だけが積もっていきました。



別の道を、模索しだしたのも、

そうするしかなくて


私には自然な流れでした。




もし、話術に長けた人が

あの時、巧妙に私を誘導していたら


長いものに巻かれる、じゃないけど

間違えたかも知れません。


今でも思います。


それぐらいどうすべきか分からなかったし

揺れていて、孤独でした。


寂しかった・・・


心が拒否する人にすら、

頼りたい気持ちもありました。


でも、


今は、本当に


あの時、

あの選択をした『自分』に、


感謝したいです



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【感謝をする事について】


ネガティブな出逢いが


それがいい方向へ向かう転機だった、

と、後でわかっても


私は、感謝はしません。


怒りは消えているし理解もできるなら

それでいいんじゃないですかね。



やり切って

わかった事がありました。


何にでも感謝するのは


その人生で、無意識に人を傷つけ

消費してきた証です。


無意識は気づいてるんです。


バランスさせないと、いられない。


だから機会があったら

何にでも感謝したい。


よくゴリゴリ会社を大きくしまくった社長が、引退後、急に「全てに感謝」とか

慈善事業にスイッチが入ったりするのと


多分同じです。


それで心が楽になるのなら

それも運命で

有益な回復の方法なんでしょう


でも、私は、振り幅が大きな生き方を

求めたわけではないので


違和感がありました。


感謝する自分を

ちょっと自慢する人を見かけるたび


何かもやもやしました。




感謝を感じているのと


感謝できる自分を自慢しているのは


多分、「天と地」ほど、全然違う佇まいです


後者はそうとも知らず、

また業を増やしているだけです




感謝とは「感じて謝る」なのです。



謝っているんです。

全てをチャンスとして。



今ここで 目の前の人に


ありがとう✨と言っている人とは


作業が違います。





似てるけど違う、って事を


一度書き分けてみたかった。




なぜこんな事を唐突に?と思うのは

健全な方です。




私には、感謝しなきゃって思う傾向が

あるんです。


しかもネガティブな関係において。


何故なら、傷つけてくる相手に

ずっと感謝を求め続けられた人生だから


傷つくたびに

相手を理解したり

許そうとする心が


もうセットになって染み込んでいます


でも、それは苦しみでした。


感謝するという

仏教でもよくありそうな

宗教のような思想は


救いがあるようで

私にはありませんでした


理解をする

共感を持つ、については

頑張ってきたし


もういいじゃん・・・


自然に感謝したくなる時を

私は大事にしようと思います



感謝が必要なのは個人の『因果』


感謝できても立派な事じゃない


ひっそりとやり尽くす修行のようなもの・・・



謝る事のない人生なんてないし

たくさん失敗をしてきた私は


たくさん感謝をしてゆくでしょう


それは私の業だと知って

心が自然に動いた時に、


ありがたく感謝させていただいてゆきます




ポジティブな出逢いも

ネガティブな出逢も、


道がクロスしただけ。


それ以上でも

それ以下でもなく


ポジティブな出逢いなら

ありがとう、と感謝し


ネガティブなものなら


今なら、


感じた事に嘘をつかず

等身大でやり切る事が役割と思い


率直になろうと努力します。


それはきっと


ポジティブな出逢いの


感謝と同じ重さです。



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そんなこんなで、



発達外来というジャンルに

少し うんざりしてしまったので


繋がっていた他の発達外来のお医者も

一旦、全て切る事にしました。



一度頼らずに


息子に何が必要か、

自分で感じて考えてみることに


したのでした。


5歳になったばかりの頃でした。


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息子の発達の凸凹のタイプは(性格を含め)


幼少期には医者に発見されないタイプらしかったです



診療センスの「なさ」は

見識の無さでした



発達検査に関しては


医者を絶ってから


信頼できる臨床心理士さんを探して

自費で診断を受けました。



私はグラフを知る事ができて

今後の参考にでき、視野も得られて


息子を受け入れるのには


良いことしかなかったです。


下手なお医者の助言より100倍役に立ちました




私達の困り感に、


知識と視野と寄り添いをくれたのは


この発達検査の結果と


有能な臨床心理士の方や

支援サービスにいた心ある方達でした。


もちろん、


人によるので、

慎重に選ばないといけないけれど


有能な臨床心理士さんは間違いなく


視野も見識も深いし、

自分を追い込んで、スキルと心を

切磋琢磨しています。



私は、臨床心理士さんの

数少ない言葉に乗ったメッセージを


大切に、道標のように、受け取ってきました。


プロだなぁって、お世話になったお2人は

リスペクトしております。


よい医者には恵まれなかったけど

他に良い人達には恵まれました。





一旦意識から外したら

矛盾なく手に取れるものが見えました。


一旦切る、は あの時本当に


私には、必須だったんだなぁと思います。