境界から見る景色

はじめましての気持ち

今日の心の窓



古の人々もここから祈ったんだ



昨日、届いた友からの贈り物の中に


祭りの神事で、日本全国各地から集まったお水を、釜で合わせ祈る儀式があったそうで


そこで生まれたお水が


お裾分けで入っていた。


どこか良いと思う大地に還してね。』と。


どこにしようか・・・


地元神社の池とか?


いや、なんか違うな・・・





とある歴史のある神社が気になっていた。


今朝、もう一度検索をかけたら、


あれ・・・なんか、違う画像が。


惹かれる。


あ、閃いた!


ここだ、ここにしよう〜!


早速、お水を還しに行ってきた。



風が吹き渡る河辺に

ホトトギスの鳴き声



良い空気・・・



お水を河に還して、祈った。



あまりにも、気持ち良くて幸せで


微かに居心地が悪くなっている自分を


心の片隅に感じる。



ただ、幸せを


あぁ幸せだなぁと、感じられない自分。



まだ、いるんだな・・・



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1人で幸せな気持ちになる瞬間


同時に、心の片隅に存在するものがある


申し訳ないような・・・

後ろ髪を引かれるような・・・


それは


無意識の人に


巧妙に不幸でいる事を

願われ続けてきたから。



彼らは、今でも

自分達が何をしてきたか知らない。



家族の中に「ゴミ箱」を設定しないと

生きられなかった、凸凹さん達。



受動タイプの自閉傾向の人が

無意識に生きる中で引き起こしてゆく選択で



自分は清く正しく1ミリも間違っていない、

という仮面を被りながら



ごみ箱を使う。


無意識の人は、

反省や内省、懺悔や謝罪とは無縁



彼らは多分、そうやって逃げ切って、

この世を去ってゆくだろう



ただ、そんな両親も


脈々と続く連鎖に生きた『業』だったのだろう




私も、その流れの中で、


自分で作った『業』もある


その重なり積もった『業』が


私の片隅で足を引っ張っている。




『私だけで幸せになってはいけない。

 幸せになる価値はない。』






心を紐解いてゆくまでは


こんな思い込みが

本当に存在するなんて思わなかった。


幸せに生きようと


自分も、皆も、


誰しもがそうして生きているものだと

思ってきた


けれど、


従っていたのは、別の声に、だった。




残念ながら


心の声を見つけたからといって

直ぐに消えてなくなるものでは、なかった。


今でも、時々見つけ、


見つけては『対峙』する。


変化しているその時の、自分の心で。


寄り添い方も変わってゆく。

癒し方も変わってゆく。




無意識ではない、という事は


恩恵なのです。




通常は積極的に無意識には挑まない。

よっぽどの事が無いと。



けれど、



よっぽどの事があっても

無意識に挑む事は、とても怖い事なのです



だから、変化の時が来ていても

色んな態度を使って見ないふりをする



そうして生きてゆくのは


実は


自分にも他者にも

残酷な現実を引き寄せるもの。



無意識に生きていた時は


自分がバラバラになりそうで

混乱していた。


呪いのような無意識に導かれ

選択を誤る事も、多かった・・・


でも、


今は、


想いを「分類」できる。


同じ事を感じても

痛くても


振り回される事はなく

持ち堪える工夫もできる


痛みは徐々に薄まってもゆく



繰り返し、


感じて、感じて


手放す作業は続く。



こうして、


少しずつ自分と仲良くなってゆく


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祈り、帰宅して思う。




私は、私を豊かにしよう。


どんな事でも

どんな状況でも


全てを明け渡すべきとは、思わない


出来る事はするけど


私も、私の責任を取ろう。


自分を差し出し、

喜びに替える方法は


もう学び享受した。


今度は違う方法で、満たされよう。





仕事についても。


許してこなかった事を、許そう。




人生後半戦だ