境界から見る景色

はじめましての気持ち

凸凹でも親子になってゆく



メル友ママとの関係で

私は やり残しの宿題を終えたようです


彼女が私に連絡をしてくる時に


K君の凸凹同級生を、


時に心配するふりをして

時に匂わせるように

最後は、あからさまに(❷参)


その凸凹同級生の


凸凹を語るふりをして


私と凸凹息子も

同時に、おとしめている「つもり」なのは


気づいていました。


でも・・・まぁ


不安からだろうし・・・

基本、的外れでもあるし・・・


と、向き合わなかったのは


本当は私の逃避でもありました。


普通が通じない、のは

凸凹さんにはよくある事で


自分的には相当頑張った、と思う

表現でも伝わらなかった事で


ここまで言っても伝わらない、

手放しても貰えない、という


私の中のトラウマを

踏まれている状態になっていました。


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【例え話しです】


ある人が


私の庭に、

境界を越え、入ってきては

庭にある花を

知らんぷりして踏むのです。


私がどう悲しむか

確認しながら。


私は、酷い行為だなと思ったけれど


彼女が踏んでいたのは

鳥が運んだ種から咲いた

自然からの贈り物の花だったから


私のものではなかったから


何も言いませんでした。



私が大切に育てていた花には

気づく事もなく

踏まれる事はなかったから。


ただ、


彼女がしている事の意味は

知っていました。




その花は私が育てている花ではないよ、と

言っても、彼女は信じないだろうし・・・


悲しい・・とはちょっと違うし


私など見えていないなら

反応しただけで誤解するでしょう


ならば


私は、


自分が大切に育てている花を

自分が知っていればいい。

その美しさも

価値も

彼女に理解して貰う必要は

ないのだから


そう何度も何度も、心に刻み


不快な言葉が過ぎ去るのを待ちました


こんなイメージです。


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でも、間違っていたんですね。



的外れな挑発でも


私の境界を侵し

私に向けた搾取だったなら


まずはその「行為」に対して


怒るべきだった。


彼女の無意識が

求めていたのは痛みで


私は何を勘違いしていたのかな。

逃げて、別の役割を

果たそうとしていたと思います


本当の宿題を果たして


連絡が来なくなった変化に

色々を感じ、


起こった事を想像しました


それまで、何度も

真っ直ぐ伝えた事はあったのに


彼女は「ごめん、申し訳ない。」と、

軽く簡単に謝り、しれっとまた繋がってきた。


本当に私にしたことを自覚するなら

恥じるだろうし


離れることだと

悟るだろうに・・・と


彼女が戻ってくるたびに


何かがまだ

切実なんだろうなぁと


想像していました。


でも、やっと、

お互い終わった。



私は怒りを込め

彼女からの負を

意図して、少しだけ返した。


blogには彼女からの私達を巧妙に

おとしめようとした会話は

一つも書かなかったのは

思い出したくなかったのもありました。


それぐらいには本当は不快だったんだなと

改めて思いました。



結局、あの時K君は

難関中1校の受験だったそうで


私との変化が起こっても

彼女の選択には変化はなかったけど


どの時点かはわからないけど


あの頃、


心はK君へ寄り添ったんじゃないかな、と


想像しています。


メル友ママの旦那さんも、

かなり強いアスペルガータイプ。

旦那さんの説得は難しかったかも・・


受験の失敗から、

6年生3学期丸っとの不登校を経て


中学へ通い始められた奇跡のような展開は


K君のイメージからは正直、意外で

勿論、K君の成長もあっただろうけれど、


側にいる方たちの寄り添い感じました。


その寄り添いの最も大きいものが

メル友ママであった事を


どこかで信じている気がします



連絡がなくなった事が

それを感じる理由です。


恥を感じたら

手放すものだから。


変化は連鎖します。


彼女が私を

ネガティヴに受け止めていても

全然構わないし


後悔は1ミリもなく

私のタイミングで役割でした。



10年かかった宿題でした。


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メル友ママは悪人ではありません。


ピュアだけど無自覚な、

抑圧された、歪みがある凸凹さんでした。


K君が幼児期は、

愛ある姿を見てきました。


誰よりも母だった。


だからこそ、


私も変化に戸惑ったし

K君も育つ程に、そうだったと思います


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彼女との交流を通して


昇華した視野があります


その一つ


凸凹人さんの中には


inputで始まる刺激には

うまく反応を返す事ができて

inputがある限り、巡るけど


outputを「自分から始める」事が

とても苦手な人がいます。


凸凹息子もその1人。

身近にも何人かリアルに見てきました。


その苦手が過ぎると

理解に苦しむ行動に見えるはず。


凸凹息子は随分クリアしてきていますが、


こっちのoutputはスムーズなのに

あっちのoutputは病的に固定されて

全くできない、というムラも、


よくある事でした。


手放す事ができなかった凸凹部分は

工夫が必要なのです。





子育てに関してですが、


そのタイプの凸凹さんが子育てをすると


中には、


子が、愛らしい乳幼児期を越えると


急激に、子への愛が

冷める感覚になる凸凹さんがいるようです。


これは最初、どこかの本で見ました。

ピン!とアンテナに引っかかりました。


その時、凸凹さん達は、

愛が消えた自分を『役割は終わった』と


肯定してしまいがちです。


それは


子どもから、先に

差し出してくれる愛が(愛らしさ)=inputが


徐々に消えて


受け取る刺激がなくなるから。


凸凹さんの中にある

愛情ボタンを押してくれる

子の愛らしさが消えると


「自分発」の愛が、病的に、

自然には出にくいのです・・・



その状態で、無意識に生きていれば

望まぬはずの状況に流されてゆくだけです



自分から

愛を表現するきっかけを

掴み損ね、


子が育つ程に

関係はドライになってしまいます。


種、を残す事に成功しても

関係を築くことには失敗してしまうのです


メル友ママも

もしかしたら、

そんな凸凹特有の流れにいたんじゃないかな。


彼女が、子を産む前の

自分に戻っていった理由です。


もちろん、戻っていった姿も

凸凹で歪んだものを抱えた姿でしたが。


そこに深い「悪」が存在するわけではなくて。


でも、この特性が


家族や関わる人に


深い悲しみや、

歪みを生みだしていく事は


こだわりと自閉的な感覚で

当事者の凸凹さんには、みえなくなってしまっていても


容易に、想像できます。



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もう一点


凸凹さんは


今と過去の記憶の繋がりが

弱い人がいます。


例えば、


幼児期の子と

現在の育った子を


無意識に

別人のように感じてしまう人も

中にはいるようです。


記憶の引き出しや

繋げる部分が弱い、という

特性がある人がいます。


この感覚を持った人と2年毎日

会って話して過ごしてみて


嘘じゃないのだなと実感しました。


脳の問題なのだけど・・・


凸凹を知らない人には

非情な親に映る姿だと思います。


メル友ママの変化は


こういう凸凹事情が

ひっそりと重なった


ある種のよくある凸凹さんの

姿だったのかも。



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ならば、そのある種の凸凹人は


種を残すことは成功できても


親子関係を築く事は

必ず失敗する運命なのか???


親子、家族は一緒に生きて、

なってゆくものです。



親子の繋がりを育む事は、無謀なのか?



いいえ。


工夫があれば成される事


大丈夫です。


元々凸凹さん達は

優しくピュアな人が多いのです


必要な事は、


自分を知る事です。

認める事です。



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凸凹人に必要なのは



受け入れる勇気と

工夫です。


情報は溢れているので程々に

自分に合ったものを慎重に少し


元々ピュアな人達なので


ご自身を直視して


自分を信じるのが

一番の道標です



どの答えも


絶対の正解はない。

必要な時があるだけ。


そう思って


どの心も

自分にある事に苦しまず


判断を加えず、


観察して

観察して

観察し続けます


混沌が怖く

答えを決めてしまいたくなっても


その間はグレーで

持ち堪える


持ち堪える間に


ピュアな凸凹さんなら

答えを見つけられます


自分の中にこそ


唯一オーダーメードな組み合わせで、

使いこなせる答えがある、


それが自分にとって

正解なのだと感じれたら



脈々と続く、負の連鎖や

無意識に搾取してしまう癖から


少しずつ解放されていくはず。





自分を知る事は


ご先祖さまへの

最大の供養でもあると思います。




凸凹君と親子になりたいと願い


子の凸凹だけでなく

自分の中にある凸凹に向き合って


子と分かち合うきっかけにする


私達は、

絶妙に出逢い

うまくできているのです。


知るという事は

もう変わったと同じだと

誰かが言いました


はじまりですから。


流れを「意識し続ける」ならば


大丈夫です


子どもから生物的な愛らしさが消えても

大丈夫です



私は、自分の親がこのタイプでした。


長い間


冷酷で

自分勝手で

非情だと


思ってきました。


凸凹子育て中も


自分も、もしかしたら

父母のようになるのかも?


こんなに愛しい子でも

ある日、自分の中に

冷たいものが芽生えるのかも

興味を急速に失うのかも

そうして見限っても平気になるのかも


怖くて


毎日

毎日

確認しました



この 


もしかしたら

自分は愛が消える凸凹人間かも


という客観視は


すごく役に立ったのです。


自分の中を疑い

観察してゆくことは


自虐でなく

恩恵になりました。



私の望みは「種」を残す事ではなく


「親子」になる事だと、

ずっと意識してこられました。


恐れと

確認は


凸凹脳が、

ブレないでいられる「装置」なのです。



日々、「だいじょうぶ、今日も愛しい」と


自分の感覚を、自分に『input』する


客観的にそれをコツコツ続ける事で


子からのinputが減っても


愛しさを自分から見出すノウハウ

育った子の中に、その影をみる術を


手に入れていきました。


愛情の記憶に繋がれるように

なっていったのだと思います。


私の記憶の引き出しにも

凸凹がある事を打ち明けておきます



毎日の積み重ねは大きいです


恐れは


正しく恐れるなら

恩恵がありました。


誰にでも有効ではないかも知れませんが


同じように


自分は子を愛せないかも

愛していても

いつか愛せなくなるかも


もう微かに自分の中が

冷えてきているように感じ


それに恐れを抱いている


凸凹さんがいるとしたら


何か伝わればいいなぁと思います。


冷酷なわけでは無く


頑固に変わらない

強い流れ(ベクトル)を

常に抱えて生きているのは


とても大変なのです。


凸凹さんは、そのため元に戻りやすい


だからこそ


そうなる理由を


自分を紐解いて感じていければ

工夫は可能です


自分に合った術はきっと

それぞれに見つかります


精神論はハウツーより

理解しにくく馬鹿にされがちですが



運命(DNA)に挑戦するには

設定に踏み込む必要があるのです


それができるのは


「心」だけ。


遺伝子学者さんが、遺伝子のオンオフすら

心で成されると言っていた言葉を


私は信じていきます



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長い❹本建ての前振りでした。


これで


このお話は終わります