境界から見る景色

はじめましての気持ち

神頼み

神頼み、で 昨日お参りに。晴天なり。

(正確には神頼み、ではないんですが・・・💦)



今日は息子の英検の試験です。

さっき会場まで送ってきました。


息子くん、この級は、落ち続けています。

ずーーーっっと落ち続けています。


中1からだから3年目!

あはは💦です。


私も旦那も英語は使わない人間なので

教えることは出来ないのですが


凸凹息子の特性に合う習得方法、という意味では、意識的に関与してきました。


望んだわけではなく、欲しかったものについてきたオマケ。それが英語でした。

これも運命、と環境設定に取り組んできましたが


ここから先は・・・と

ちょっと行き詰まりを感じています。



何か ユニークかつ非常識な向上案があれば

ご教授いただけましたらば。


ちなみに日本的な「でるたん」暗記は全く向かないタイプです💧


で、


その環境設定の一環の『神頼み』


頼んだわけではありません。


息子の中で「何か」のスイッチが切り替わるのが、目的なのです


その何かは、


ジンクスとか、

ルーチーンを大事にする人が

掴もうとする「何か」です。


最近は「ゾーン」ともいうのかな?


そのテクニックを

自分で、自分に、使ってる人は、

結構いますよね。


朝は絶対カレーの人や

右足から靴を履く人とか

御守り必須の人とか

香りをまとう人とか


カチッとくる感じは

教えられるものではないので


色々「設定」を体験させてみて・・・


いける、大丈夫!そう思えた時に繋がる、


無意識に温存されている『余力』に

アクセス出来ることを願うのでした。




実はこの英検の級は


あと1問で合格、というスコアを

繰り返しているのです。


言い換えれば、一問の明暗で不合格💧


ある意味、


息子のブレなさを知っている親からしたら


英検の問題を作成している運営さんらの

高い能力を垣間見る気持ちです!





私は「英語は使えてナンボ」

資格や級は別に・・と思っていたのだけど、


旦那は、凸凹な息子の将来を

私より戦略的に考えていて・・・


「損はない。親の声、号令が届く時期はもう数年も残されてないから、今はチャレンジさせる」と。


その気持ちは、

お受験パパのそれではなく、

わかるなぁと。


私も彼の幼少期に別の面で

「今これだけは守らないと。それは今だ。今以外ない。」と決断したので


『旦那にとってこれが今だ!と思うのね・・』と 気持ちをくんで、任せています。


最近は男2人で

英検の結果を考察したり、戦略を立てたり・・


私はそっちの変化をみて、

(・・あぁこれも良かったな) と思うのでした。



息子はギリギリを出し切る(きれる)

アスリートタイプではありません。


その感覚を掴もう、とは多分、

思わないタイプだと思っています。


なので、今の不合格の結果も、


変な言い方だけど、

余裕がある範囲で落ちているはずなんです。


何らかのスイッチ

彼の中の独特な思い込みとか

ルールが変われば


多分、今ぐらいの立ち位置なら

結果はすぐ変わるはずなんです。


でも、凸凹君のそのスイッチを変えることは

本当に・・・難しいのです。



親であっても

彼が何にどう躓いているかも

法則があるようでなくて


わからない


理解ができたような気がしたのに

全く理解できていないような事が起こる


そういう「えぇ!?」が


未だあって苦笑いすることが多々あります。



WASCⅢの診断結果を初めて聞いた時


臨床心理士さんから


「息子くんの頭の中の理解の方法は独特で、答えに辿りつくまで自信もなく解らないという佇まいでしたが、あ!と理解できた時から早くて一気にピースを組み立ててしまう印象でした」と。


英語に関して、今はその大きな飛躍はないと踏んでいて(環境を大きく変えていないので)


今の彼の状況を鑑みれば


『偶然、ラッキーで合格!』を狙うのが

正解なのですw


隠された余力に


すこーーーしだけ、すこーーーしだけ


繋がる事ができたらば!






私達の、そんなこんなの工夫や提案の中で


息子が (・・これは自分に合うかもなぁ)

と感じる方法を


一つでも多く、今のうちに体験してほしい


私達の


模索する姿も

提案する姿も

とらわれなく選ぶ姿も


伝えられたらなーと願うのです


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余談ですが


お参りする時に、神社仏閣で


「神様と私」の世界に入ることが


私はあまり上手くできません。




何かを祈る時は、大抵

車を運転している時や、家のリビングです

(特定の宗教はもってないです)




神社など、お参りする場所に立つと


目の前や、

片隅に


深く祈る方の佇まいを感じ

その何かが流れ込んでくるような


苦しい気持ちになる事が多いからです。


自分の祈りなど、と

無価値に思えるというか・・・



でも、ある時から


その感覚は、


親との関係から得た

歪んだものだと気づきました


私の祈りも

他者の祈りも


優劣はなく

等しく大切にされるもので


それをするのは私なのだと


私は


私の心を大切にするしか、ないのだと。



昨日も、やはり

片隅に感じて



価値なような

無力のような

消耗する感覚に陥りそうになって


駄目だ・・・と、


まずは一瞬、


その深く祈る方へ向かって

「祈りが叶いますように」と祈り



自分を軽く扱いそうになる感覚を

戒めながら、



私の祈りを意識して、

お参りをしてきました。


正確には、

神頼みではないのですが。


その違いを書いたつもりです


この世では

このスタイルを

神頼み、というらしいので。